池澤夏樹=個人編集「日本文学全集」第28巻『近現代作家集III』の月報に寄稿しました

池澤夏樹=個人編集「日本文学全集」第28巻『近現代作家集III』(河出書房新社、2017/07)の月報に寄稿しました。

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今回の月報には、池澤春菜さんによる「世界の形と言葉の灯台」と、拙文「宇宙全部入り――玄関から銀河帝国の滅亡まで」が掲載されています。

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池澤春菜さんの文章は、本書に収録された具体的な作家の言葉も交えながら、この本の意味と魅力を的確に位置づけておられました。それに引き替え拙文の、なんと上滑りしていることか……。

それはともかく、池澤春菜さんが書いておられるように、この「近現代作家集III」は、全30巻の「日本文学全集」のうち3巻(1/10)を占める「近現代作家集」全3巻の最終巻であり、本全集でも唯一存命の作家の作品が載っている巻でもあります。

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ここで、収録された18作品をご紹介しようかとも思いましたが、公式ページや書店のページにも詳細は見当たらないようでしたので(念のため、Googleでもあれこれ検索してみました)、7月12日発売予定の実物をご覧になってのお楽しみ、ということにいたしましょう。

 

イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #05

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)の第2章「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」の第4段落を読みます。

■メモランダム5.第2章第4段落:定義をテストするために

5-1.定義をテストする方法

バーナード・スーツ(Suits 1978)が実際にやっているように、ゲームの定義の良し悪しを測るもっとも単純な方法は、その定義が広すぎたり狭すぎたりしないかを確かめることだ。

(邦訳40ページ/原書p. 28)

 

ここでユールが参照しているのは次の論文。

★Bernard Suits, “Tricky Triad: Games, Play, and Sport,” In Philosophic Inquiry in Sport, 2nd edition., edited by William J. Morgan and Klaus V. Meier, 16-22. Human Kinetics, 1995.

これについては、後で別途述べることにしよう。ともあれ、ここでの課題は、ゲームの定義をどう評価できるか、ということだ。

 

例によって原文を自分でも見ておこう。

As demonstrated by Bernard Suits (1978), the simplest way to test a game definition is to test it for being either too broad or too narrow.

 

バーナード・スーツ(Bernard Suits, 1978)が説明してみせたように、ゲームの定義をテストするなら、最も簡単なやり方は、その定義があまりにも広すぎたり、あまりにも狭すぎたりしないかどうかを試すことだ。

(原書p. 28)

 

それにしても、定義が広すぎる/狭すぎるとは、どのようなことか。あるいは、定義の適切さとは、どのようにして評価できるだろうか。

この問いを念頭に以下を読んでみる。

 

5-2.定義をテストするための前準備

定義を提示するまえに、このテストをおこなえるように次のように前提しておく。『Quake III Arena』(ID Software 1999)、『Dance Dance Revolution』(コナミ 2001a)、チェッカー、チェス、サッカー、テニス、ハーツ、これらはすべてゲームだ。『The Sims』(Maxis 2000)や『SimCity』(Maxis 1989)のような終わりがないゲーム、ギャンブル、純粋に運まかせのゲーム、これらはゲームと非ゲームの境界線上のものだ。交通、戦争、ハイパーテキストフィクション、縛りのない自由な遊び、リング・ア・リング・オー・ローゼズ、これらはゲームではない。

(邦訳40ページ/原書p. 28)

 

ユールは、具体例をいくつか選んで、それらがゲームかゲームではないかを区別してみせている。分類は3つ。

・ゲーム
・ゲームと非ゲームの境界線上にあるもの
・ゲームではないもの

特に紛れはないと思う。

 

原文を見ておこう。

To set up the test before the definition, I will assume that Quake III Arena (ID Software 1999), Dance Dance Revolution (Konami 2001), checkers, chess, soccer, tennis, and Hearts are games; that open-ended games such as The Sims (Maxis 2000) and SimCity (Maxis 1989), gambling, and games of pure chance are borderline cases; and that traffic, war, hypertext fiction, freeform play, and ring-a-ring o’ roses are not games.

定義の前にテストを設定しよう。次のように仮定する。『Quake III Arena』(ID Software 1999)、『Dance Dance Revolution』(コナミ 2001a)、チェッカー、チェス、サッカー、テニス、ハーツはゲーム。『The Sims』(Maxis 2000)や『SimCity』(Maxis 1989)のような終わりがないゲーム、ギャンブル、まったく運まかせのゲームは境界例。交通、戦争、ハイパーテキストフィクション、自由形式の遊び、「リング・ア・リング・オー・ローゼズ」〔歌う遊戯〕はゲームではない。〔このように仮定しておく。〕

(原書p. 28)

 

つまり、ユールの実感としてこのように分類されるというわけであろう。後で定義をした際、この実感にどの程度合うか、合わないか、というテストをしようということである。

a) 実感によるゲームとゲームではないものの区別・分類
b) ゲームの定義
c) 定義の検証:定義(b)はどこまで実感(a)を説明するか

という次第。

 

5-3.定義の要件と境界例

ゲームの定義は、ゲームの集合の内側にあるものと外側にあるものを区別できなければならないが、さらに加えて、いくつかの事例が境界線上のものになるのはなぜなのか、またどういう点でそうなのかを詳しく説明できなければならない。境界事例の存在は、それがそうである理由とそのあり方について説明できるかぎりは、定義の難点にはならない。

(邦訳40ページ/原書p. 28)

 

ここで述べられているのは、ゲームの定義に求められる条件である。

・ゲームとそれ以外を区別できること。
・境界例を説明できること。

 

原文は次のとおり。

The definition should be able to determine what falls inside from what falls outside the set of games, but also to explain in detail why and how some things are on the border of the definition. The existence of borderline cases is not a problem for the definition as long as we are able to understand why and how something is a borderline case.

 

この定義は、ゲームの集合に入るものと入らないものを区別できるものでなければならない。ただし同時に、この定義は、あるものがこの定義において境界に位置するとしたら、それはなぜなのか、どのようにしてなのか、こうしたことを詳しく説明できるものでなければならない。〔定義によって〕境界例が現れるのは、この定義にとって問題ではない。あるものが境界例になるのはなぜなのか、どのようにしてなのかが分かりさえすれば。

 

ここでは「分類」が検討されている。

なにかを分類する時、区別する時、その区別の仕方によってはうまく分類できないものが出てきたりする。例えば、動物の分類におけるカモノハシのように。

分類とは、誠に厄介で面白い営みだ。理想をいえば、分類によって区別される全対象物が判明しているのが望ましい。ただし、ゲームとゲーム以外を区別する場合、人がゲームであると考えるものを全部列挙できればよい、というわけではない。「ゲームではないもの」と区別されるものについても、やはり全部列挙する必要がある。もし分類の対象物をすべて列挙できれば、それら全てに共通する性質なりを抽出すればよいから。

――とは、あくまでも理想の話。

実際には、私たちは有限の時間や資源をやりくりして、有限の対象を見知ることができるばかり。そうした有限の経験、対象物の一部についての経験をもとにして、さて、それでもなんとかかんとか、どうやってより適切な分類を施せるだろうか。これが分類における課題であると思う。

そして、身も蓋もないことを言ってしまえば、分類とはものの見方である。人間の身からすれば、複雑多様な対象物を、なんらかの見方によって分類し、把握しやすくする。これが分類の目的と言ってもよいだろう。

 

■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」

 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

 

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Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press) (English Edition)

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分類という思想 (新潮選書)

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分類思考の世界 (講談社現代新書)

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馬場保仁+山本貴光「ゲーム教育トーク」

馬場保仁くんとの対談「ゲーム教育トーク(後編)――ゲーム作りは心の動きをデザインすること」(「ゲーム業界 活人研究」、Social Game Info)が公開されました。

『ゲームの教科書』(ちくまプリマ-新書)の共著者でもある馬場くんと、ゲームクリエイターの教育について話しあっています。

というと、大半の人にとってはご関心のない話題かもしれません。

ゲームクリエイターを目指す人には、なにを学べばよいかというヒントが見つかると思います。また、ものを教えることや学ぶことについても、ひょっとしたら手がかりになるかもしれません(そうだといいナ)。

てなわけで、お読みいただければ幸いです。


■関連リンク

前編はこちら。


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世界が変わるプログラム入門 (ちくまプリマー新書)

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イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #04

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)の第2章「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」の第3段落を読みます。

 

■メモランダム4.第2章第3段落:ゲームを定義する目標

4-1.ユールの定義の目標

邦訳では第3段落だが、原書では邦訳第2段落と同じように、第1段落である。

もちろん、ゲームを定義する試みは、これまでにも数多くあった。しかし、この章で提示される定義は、〔これまでの定義とはちがって、〕ビデオゲームとそれ以外のゲームはどういう関係にあるのかとか、ゲームと非ゲームの境界はどうなっているのかといったことを説明することを目標にする。

(第2段落、訳書40ページ/原書p. 23, 28)

 

いったんここで区切ろう。

 

ユールがゲームを定義する際、何を目標とするのかが述べられている。抽出して並べればこうなる。

i) ヴィデオゲームとそれ以外のゲームの関係を説明する定義である

ii) ゲームと非ゲームの境界はどうなっているのかを説明する定義である

  

原文に沿って自分でも読んでみよう。

While many definitions of games have been attempted, the one I will propose here has the goal of explaining what relates video games to other games and what happens on the borders of games.

 

一方では、これまでさまざまなゲームの定義が試みられてきた。他方で私がこれからここで提起してみせる定義では、次の点について説明するのを目標としている。つまり、何がヴィデオゲームをその他のゲームと関係づけているのか、そうした諸々のゲームのあちこちの境界では何が起きているのか。〔こうした点を説明する定義を提案しよう〕

 

 定義の目標を同じく抽出して並べるとこうなる。 

・what relates video games to other games

 何がヴィデオゲームをその他のゲームと関係づけるのか

 

・what happens on the borders of games

 そうした諸々のゲームのあちこちの境界では何が起きているのか

 

“the borders”と定冠詞がついた複数形になっている点を上のように読んでみた。

 

また、「〔これまでの定義とはちがって、〕」という訳者による補足を踏まえると、ユールが提示しようとしている定義は、上記の2つの点で先行する定義とは違っている、ということになる。

 

では、果たして先行する定義にはどのような特徴があるのか。それはユールの言うように、上記2点を目標としていないのか、といった問いを念頭に置いて、先を読むことにしよう。

 

4-2.定義によって理解したいこと

文はこう続く。

そこで求められるのはどんな定義なのかについて、あらかじめスケッチしておこう。われわれが〔ゲームの定義を通して〕理解したいと思っているのは、おそらく次のような事柄だろう。ゲームそれ自体(ゲーム開発者によってデザインされた人工物)が持つ固有の特徴はなんなのか、プレイヤーはゲームとどのように相互行為するのか、遊びはたとえば仕事とはちがうとされるが、それはいったいどういうことなのか――こういった事柄だ。

(第2段落、訳書40ページ/原書p. 23, 28)

 

先ほど見たような2点を満たすのは、いったいどのような定義だろうか、というわけである。

 

3つのことが言われている。

a) ゲーム固有の特徴はなにか

b) プレイヤーはゲームとどのように相互作用するか

c) 遊びは仕事とちがうと言われるが、どういうことか

 ここでは区別のために、先ほどのi、iiとは別に小文字のアルファベットを振っている。

 

ゲームを定義することで、こうした問いに答えたい、という主張だ。

これは、先ほど述べられたiとiiの件とは、どう関係するのだろうか。

 

iとiiは、これから提示されるユールによるゲームの定義の目標だった。もう一度示そう。 

i) ヴィデオゲームとそれ以外のゲームの関係を説明する定義であること

ii) ゲームの境界で生じていることを説明する定義であること

  

a、b、cは、いずれもiiに関係しているようにも見える。つまり、

aのゲーム固有の特徴とは、ゲームではないものとの違いでもある(ゲームと非ゲームの境界)。

bは、ゲームそのものとゲームからすれば、その外にあるとも言えるプレイヤーとの境界(ゲームとプレイヤーの境界)。

cは遊びと仕事の境界(ただし、ここは「ゲームと仕事の境界」ではなく、「遊びと仕事の境界」と言われていることに注意しておこう。これについては、ゲームと遊びの関係をユールがどう見ているかにもよる)。

 

――という具合に、a、b、cは、見ようによっては、ゲームとそれ以外のなにかとの境界に関する問いであると読むこともできる。

 

この場合、iはどうなるか。iは「ヴィデオゲームとそれ以外のゲームの関係」ということで、「ヴィデオゲームとそれ以外のゲームの境界」の話である。と読むと、iはiiの一部であるとも言えそうだ。

 

以上を念頭に置きながら、原文を自分でも読んでみよう。

 

What should the definition look like?

その定義はどのようなものであるはずだろう。

 

We are probably interested in understanding the properties of the games themselves (the artifact designed by the game developers), how the player interacts with them, and what it means to be playing rather than, say, working.

我々として関心があるのはおよそ次のようなことだ。つまり、(ゲーム開発者がデザインする人工物である)ゲームに固有の性質、そうした〔ゲームで遊ぶ〕プレイヤーはゲームとどのようにやりとりするのか、また、例えば、〔そうしたゲームで〕働くというよりは、遊ぶというのはどういうことなのか――こうしたことを分かりたい。

 

ここまでを、私の訳でまとめてみるとこうなる。 

一方では、これまでさまざまなゲームの定義が試みられてきた。他方で私がこれからここで提起してみせる定義では、次の点について説明するのを目標としている。つまり、何がヴィデオゲームをその他のゲームと関係づけているのか、そうした諸々のゲームのあちこちの境界では何が起きているのか。〔こうした点を説明する定義を提案しよう。〕その定義はどのようなものであるはずだろう。我々として関心があるのはおよそ次のようなことだ。つまり、(ゲーム開発者がデザインする人工物である)ゲームに固有の性質、そうした〔ゲームで遊ぶ〕プレイヤーはゲームとどのようにやりとりするのか、また、例えば、〔そうしたゲームで〕働くというよりは、遊ぶというのはどういうことなのか――こうしたことを分かりたい〔定義によってはっきりさせたい〕。

 

4-3.あるべきゲームの定義

以上のようにユールによるゲームの定義の目標やそれによって理解したい問いを確認した上で、次のように続く。

 

そこで、次のように仮定しよう。あるべきゲームの定義は、以下の3つの事柄を説明する必要がある。

1. ゲームのルールから成り立つシステム

2. ゲームとプレイヤーの関係

3. ゲームをプレイすることとゲーム外の世界の関係

 (第2段落、訳書40ページ/原書p. 23, 28)

 

今度は、あるべきゲームの定義で説明すべきことが述べられている。

ここで言われていること自体は、分かりづらい点はないだろう。

ゲームの定義はこの3つのことを明確にするべきだと主張している。言い換えると、この3つの点を説明していない定義は、よろしくない定義だということだ。これはユールも述べているように「仮定」なので、この時点ではなぜそうあるべきかは、特に問わずにおこう。最終的には、なぜこのように定義するのか、説明を期待しよう。

 

ここも原文を見ておこう。

So let us assume that a good definition should describe these three things:

そこで、次のように仮定してみよう。つまり、優れた定義は、次の三つのことを記述するものとする。

 

(1) the system set up by the rules of a game,

(1) ゲームのルールによって構成されるシステム

 

(2) the relation between the game and the player of the game,

(2) ゲームとそのゲームのプレイヤーとの関係

 

and (3) the relation between the playing of the game and the rest of the world.

(3) そのゲームであそぶことと、その他の世界との関係

 

4-4.議論を整理する

ところで、この第3段落は、通して読むと若干混乱してくる。

 

そのつど各セクションで抽出してみたように、ユールはこの第3段落で、いくつかのことを述べている。改めて並べるとこうなる。

 

A) ユールの定義の目標

 i) ヴィデオゲームとそれ以外のゲームの関係を説明する定義である

 ii) ゲームと非ゲームの境界はどうなっているのかを説明する定義である

 

B) この定義によって理解したいこと、明確にしたいこと

 a) ゲーム固有の特徴はなにか

 b) プレイヤーはゲームとどのように相互作用するか

 c) 遊びは仕事とちがうと言われるが、どういうことか

 

C) 優れたゲームの定義が説明すべきこと

 1. ゲームのルールから成り立つシステム

 2. ゲームとプレイヤーの関係

 3. ゲームをプレイすることとゲーム外の世界の関係

 

AとBとCはどう関係しているのか、少々混乱してきた(あくまで私の場合だが)。

 

なぜ混乱したのかを考えてみた。

 

どうもA-iが、BとCにどう位置づけられるのかが、この時点では不明である。

 

A-iiとB-cとC-3はおそらく同じことを述べている。 

A-ii) ゲームと非ゲームの境界はどうなっているか

B-c) 遊びは仕事とちがうとはどういうことか

C-3) ゲームをプレイすることとゲーム外の世界の関係

  

また、B-bとC-2も同じことを述べている。

B-b) プレイヤーはゲームとどのように相互作用するか

C-2) ゲームとプレイヤーの関係

 

残るモンダイは、B-aとC-1である。 

B-a) ゲーム固有の特徴はなにか

C-1. ゲームのルールから成り立つシステム

  

こう並べてみると、ユールはこの二つを関連づけているように感じられる。

つまり、ゲーム固有の特徴とは、それがルールからなるシステムである。だから、よきゲームの定義では、そうしたルールによる構成物であるシステムとしてのゲームを説明すべきだ、という具合に。

 

そういう眼で第1章を読み直すと、「ゲームとはなにか」というセクションにこうある。 

古典的ゲームモデルは、6つの特徴からなる。それらの特徴は、それぞれ次の3つの異なるレベルで機能する。ルールの集合としてのゲームそれ自体のレベル、プレイヤーとゲームの関係のレベル、ゲームをプレイする活動とゲーム外の世界の関係のレベルだ。

(邦訳16ページ/原書p.6)

 

抽出すればこうなる。 

α)ゲーム自体=ルールの集合

β)ゲームとプレイヤーの関係

γ)ゲームプレイとその他の世界の関係

 

先ほど見たB-aとC-1の関係は、ここでいうαに相当する。つまり、ユールにとって、B-aとC-1は同じことを指しているらしいことが分かる。

 

ただし、この時点で読者としては、「ゲーム固有の性質=ルールの集合」という言い換えにはそのまま同意できる準備ができていない。ユールはここで、いわばこの後で述べる定義を先取りして示しているわけである。

 

――という具合に考えると、先ほど述べた混乱は収まる。残るモンダイは、先ほども述べたヴィデオゲームとその他のゲームの関係が、この定義にどう関わるかであるが、これは定義が示されるところで検討すればよいだろう。

 

4-5.こう書いてくれたら混乱しなかったかも

それにしても、ユールはなぜこのように、少々ややこしい書き方をしているのだろうか。

先ほどのA、B、Cの項目名だけを並べ直してみる。

A) ユールの定義の目標

B) この定義によって理解したいこと、明確にしたいこと

C) 優れたゲームの定義が説明すべきこと

 彼は、これから論じるはずの定義について、その目標を述べた(A)。つまり、自分の定義は、これこれのことを説明する定義だ、と。そして、その定義で何を理解したいのかを述べた(B)。そこで優れた定義であれば、説明すべきことを述べた(C)。先に見たようにBとCはほぼ同じことを別言している。

 

ここだけを抽出して考えてみると、ユールがこの第3段落で述べているのは、次のようにまとめられるだろうか。

・ゲームの定義によって理解したいことが3点がある。

・優れたゲームの定義であれば、この3点を説明すべきだ。

 私はなんとなく、このように論が立てられているように読めたために、ユールはなぜ同語反復的に議論しているのだろうと疑問を持ったのだった。これが先に述べた混乱の正体である。

 

おそらく、私は第3節で、こう言われたら混乱せずに読めたのだと思う。

ゲームを定義することで、次の四つの問いに答えたい。

 

1) ゲームに固有の性質とはなにか?

2) ゲームとプレイヤーはどのように関係しているか?

3) ゲームプレイとその他の世界はどのように関係しているか?

4) ヴィデオゲームとその他のゲームはどのように関係しているか?

  

ただし、ユールが自分の新しい定義を「古典的ゲームモデル」と呼んでおり、また、第1章で述べられていたことだが、ヴィデオゲームは古典的ゲームモデルに収まっていない(邦訳16ページ)のだとすれば、上記の4は1から3の問いに答える「古典的ゲームモデル」とは区別する必要がある。 

ユールが、古典的ゲームモデルという定義の他に、ヴィデオゲームをも含む総合的ゲームモデルのような区別を立てておいてくれると、もう一つ話がすっきりするのだが、少なくとも現時点では、そうした見通しは得られていない。

 

これは私の読み方による部分が大きいと思われるけれど、どうも私はユールの議論の運びに対して、素直についてゆけないと感じることが少なくない。機会があれば別途論じるけれども、例えば、第1章の冒頭部分でも、似たような混乱を感じたのだった。そして、検討してみた結果、どうもユールの言葉使いやものごとの分類の仕方に私が違和を感じるためであることが分かってきた。

 

とはいえ、これは表現についての好みのモンダイであるとも思う。引き続き、ユールの言わんとすることによく耳を傾けてゆこう。さまざまな疑問を抱いてテクストと対話することも、こうした精読の愉しみであり、ある違和感から生じる読み込みによって、自分では気付かなかったことを教えられるのだから。

 

■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」

 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

 

■関連文献

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

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Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press) (English Edition)

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執筆・翻訳計画を立て直します

ご機嫌いかがお過ごしでしょうか。

6月から7月1日にかけての各種イヴェントや各方面との打ち合わせは、出不精のわたくしにとっては、盆と正月が一緒に来たようでした。少し前に熱を出して寝込んでから、完全とはいかぬまでも、だいぶ回復して参りました(とはいえ、なぜだか眠い日が続いております)。

先日のTsuwano T-spaceでの「知は巡る、知を巡る」を終えて、比較的短めの原稿類も片付いて、ようやく静かな日々に戻って参りました。都議選も終わって、やかましいばかりの選挙カーも去り、そういう意味でも静かです。ありがとう。

 

気づけばもう7月。2017年も前半が終わったわけですネ。

 

ところで、ほとんどの人にとってはどうでもよろしいことではありますが、本ブログのプロフィール欄に、これまで手掛けた仕事の一覧を記録するようにしています。

ついでに仕事に番号をふって数えております。

2016年は58番で終わりました。

2017年は現時点で51番。

もちろん、仕事の大小を問わず1と数えていますので、あくまで目安程度の数字ではありますが、今年はすでに去年1年と同じくらいの仕事をした勘定です。働きすぎであります(自分で言うな)。

 

というわけで、7月以降はなにもせずに遊び暮らしたいと思います。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

といって済めばよかったのですが、そういうわけにも参りません。

モブキャストとのプロ契約(クリエイター育成/ゲーム制作)はもちろんですが、お約束している本の執筆と翻訳を中心に取り組む所存です。

 

まずはここ数年「いま終わる、もう終わる」と蕎麦屋の出前みたようなことばかり申してきた『夏目漱石『文学論』論(仮)』(幻戯書房)です。本文を脱稿して、目下は付録の作業を進めております。

また、吉川浩満くんと共訳の『先史学者プラトン』(朝日出版社)、『時間のカルトグラフィ』(フィルムアート社)も翻訳作業を進めております。

共著では三宅陽一郎さんと『ゲーム人工知能入門(仮)』(ちくまプリマー新書)、吉川くんとの共著『生き延びるための人文』(新潮社)、『資本主義と民主主義(仮)』(dZERO)を準備中。

『文学論』に続く単著としては、『私家版日本語文法小史(仮)』に取り組み中で、これに関しては先日のTwuwano T-spaceでのイヴェント「知は巡る、知を巡る」でごく簡単ではありましたがアウトラインをお話ししてみました。

続いて『科学の文体(仮)』(講談社ブルーバックス)、『ゲーム原論(仮)』(NTT出版)、『記憶メンテナンスのすすめ(仮)』(筑摩書房)を書く予定です。

全部「仮題」なのだから、いちいち「(仮)」と書かなくてもよかりそうなものだといま気づきました。

他にもあれこれお約束をしていたり、新たに企画を進めているものがありますが、順次進めて参る所存です。

 

このところ予定を立てることに意味がないような状況が続いてしまい、誠に申し訳なく思います。執筆・翻訳スケジュールを立て直します。また、大学での講義が終わる8月からは、さらに多くの時間を執筆・翻訳に充てたいと考えています。

引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。

東京工芸大学「ゲーム学I」最終課題について

東京工芸大学「ゲーム学I」最終レポート課題についてお知らせします。 

課題 

次のいずれかのゲームをプレイして、分析・記述せよ。

 

★『Continuity』
 http://continuitygame.com/playcontinuity.html

 

★『Switch』
 http://neutralx0.net/escape/r1.html

 

★『Asteroids』
 https://www.atari.com/arcade#!/arcade/asteroids/play

 

また、プレイ中の自分の心身に生じた変化を観察し、記述すること。

例えば、手に汗を握った、笑った、何かをしたくなった、など。ゲームのどの場面でどのように心身の変化が生じたかを関連づけて記すこと。

 

本レポートでは、ゲーム画面など、図を用いること。

(講義中に黒板で示した各種の図を参照されたい)

画面はキャプチャーでも、手描きでもよい。

ただし、講義でお伝えしたように、画面を手描きでスケッチしたほうが、理解は深まる。

 

なお、分析・記述の際には、ここまでの講義で学んだことを活用すること。

本レポートの目的は、講義を通じて行った検討についての理解度を測ることにある。

各回の講義内容をよく思い出し、検討の材料とされたい。

 

それ以外の観点からの分析の追加も歓迎する。

 

このレポートは、自分が考えたこと、感じたことに基づいて書かれるのを期待するが、必要に応じて、他人の文章の引用をしてもよい。ただし、引用の際は出典を明記すること。

 

*講義でも述べたように、不明の点については確認をお勧めします。ご質問は遠慮なくどうぞ。

 

イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #03

 

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)の第2章「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」を読んでいます。

前回は第1段落を読んだところ。続いて第2段落。

■メモランダム3.第2章第2段落:ゲームの古典的モデル

3-1.第2章の主題

以下では、邦訳の第2段落を区切りながら読んでみる。

先に述べれば、原書では邦訳の第1段落とこれから読む第2段落は、いずれも第1段落である。邦訳では、ここで改行されて段落が分けられている。

 さて、この章の主題は、まさにこの「すべてのゲームに共通するもの」という点にある。以下では、7つの先行研究がおのおの提示しているゲームの定義を踏まえて、新しいゲームの定義を提示したい。この定義を「古典的ゲームモデル」と呼ぶことにしよう。

(第2段落、訳書37ページ/原書p. 23)

 

第1段落では、ウィトゲンシュタインを引用して、「すべてのゲームに共通するもの」などないのではないか、という疑問が提示された。だが、それこそが本章の主題であるという。つまり、ユールは、ウィトゲンシュタインが無理といったゲームの定義をしてみようというわけである。その際、いきなり定義を示すのではなく、先行研究がどのように定義しているかを集めて検討しようという次第。

これは、古くはアリストテレスの研究スタイルでもあった。例えば、『形而上学』では、存在を探究することが主題であり、アリストテレスは自説を開陳するに先立って、先行者たちが、世界(存在)をどのように説明してきたかを要約・提示している。タレスは世界を水から出来ているといい……という、いまでも哲学史に受け継がれている記述である。アリストテレスは、そのようにして先行研究をまとめてから話を進めるというやり方を採用していた。そしてこのやり方は、ユールに限らず、現在も広く行われている。

ついでに言えば、ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンによる『ルールズ・オブ・プレイ――ゲームデザインの基礎』(山本貴光訳、ソフトバンク クリエイティブ)の「ゲームを定義する」の章でも、サレンとジマーマンは、先行研究におけるゲームの定義を要約した上で、自分たちの定義を提出していた。これについては、後に定義が示される段階で、改めて比較検討してみよう。

 

3-2.古典的ゲームモデル

「古典的ゲームモデル」とは何か。これについては、次の文で言及されている。

このモデルを「古典的」と呼ぶのは、ゲームが伝統的にそのようなあり方をしていたからだ。もっと言えば、このモデルは、5000年を超えるゲームの歴史に当てはまる。

(第2段落、訳書37ページ/原書p. 23)

 

なぜ「古典的ゲームモデル(classic game model)」と命名したのか。その理由をユールは述べている。「ゲームが伝統的にそのようなあり方をしていたからだ」とは、どういう意味だろうか。ここは少し分かりづらい。「そのようなあり方」とは、どのようなあり方のことか。文の形から可能な読み方を考えてみる。

このモデルを「古典的」と呼ぶのは、ゲームが伝統的に「古典的」なあり方をしていたからだ。

 

このように読みたくなる読者もいるかもしれない。

ただし、このままでは意味が分からない。なぜなら少なくともここまでの文を読む限りでは、「古典的」という言葉の意味が不明だからだ。このように読んだ場合、結局「ゲームの古典的なあり方」ってどんなあり方? と疑問が湧くことになる。

では、そうではないとして、「そのようなあり方」とは、どのようなあり方なのか。

原文を見てみよう。こう書かれている。

The model is classic in the sense that it is the way games have traditionally been constructed.

(原書p. 23)

 

邦訳は、この文を忠実に訳していることが分かる。いま、疑問だったのはユールが、これから提示しようとしている「古典的ゲームモデル」なるものを、なぜ「古典的」と形容してあるのか、という理由だった。彼は「ゲームが伝統的にそのようなあり方をしていた」、だから「古典的ゲームモデル」と呼ぶのだ、と言っている。だが、ここは分かりづらいと感じたのだった。

 

いま眺めた原文の流れに沿って日本語として読んでみる。 

そのモデルは古典的である。どのような意味でそう(古典的と形容されるようなもの)なのか。そのやり方でゲームがこれまで組み立てられてきた(という意味で)。

 

ここで下線を引いた"in the way"は"the model"を指していると読めば、上の文は、こう言い換えられる。

そのモデルが古典的であるというのは、これまでゲームがその〔モデルのような〕やり方で組み立てられてきたという意味である。

 

つまり、これから示されるはずの「ゲームモデル」のようなやり方で、これまでゲームがつくられてきた。昔ながらのゲーム制作のモデルなので、「古典的ゲームモデル」と呼ぶことにする、という次第である。

そして、「もっと言えば、このモデルは、5000年を超えるゲームの歴史に当てはまる。」ともユールは言っている。念のためにいえば、短く見積もっても5000年にわたるゲームの歴史というのは、「序論」でも触れられていたように(そして常識的に考えても推測できるように)ヴィデオゲームの話ではなく、いわゆるアナログゲーム、非電源ゲームを含む話である。この点を紛れなく言うとしたら、古典的ゲームモデルは、ヴィデオゲームはもちろんのこと、それ以前の過去5000年に及ぶゲームに妥当するということだ。

 

3-3.ゲームは変わらずにあり続けている?

もちろん、人間の文化のある面が何千年も変わらずにありつづけたなどという話は、ふつうは成り立たない。しかし、ゲームに関しては、これを支持する確かな根拠がある。序論でセネトというエジプトのボードゲームに言及したが、このゲームは、バックギャモンや『Parcheesi』といった現代のボードゲームの先駆らしい(Piccione 1980)。

(第2段落、訳書37ページ/原書p. 23)

 

仮にゲームの歴史が5000年あるとして、他のものの場合には、その間、変化せずにいたりはしないものだが、ゲームは変わらずにあり続けている。と、こう述べられている。

なぜそんなことが言えるのか。古代エジプトで『セネト』というゲームが見つかっている。これは後の『バックギャモン』や『パーチージ』などのゲームの「先駆らしい」からだ。

――ということについて、ユールは自分でも述べているように、「序論」でこう書いていた。 

古代エジプトのボードゲームであるセネトは、紀元前2686年に作られたヘシレの墓で見つかっている。セネトは、現代のバックギャモンや『Parcheesi』――これらのゲームは、こんにちではコンピュータを使ってプレイされることが多い――の先駆にあたるものだ。

(邦訳11ページ/原書p.4)

 

この箇所で『Parcheesi』に次のような訳注がつけられている。 

インドのすごろくゲームパチーシ(pachisi)をもとにアメリカで作られたゲーム。

 

Wikipedia英語版のParcheesiの項目には、次のような説明がある。 

Parcheesi is a brand-name American adaptation of the Indian cross and circle board game Pachisi, published by Parker Brothers and Winning Moves.

『パーチージ』は、インドの十字と円のボードゲーム『パチージ』をアメリカで翻案した際のブランド名で、パーカー・ブラザーズとウィニング・ムーブスが発売している。

 (Wikipedia英語版のParcheesiの項目)

 

別の文献によれば、『パチージ』(『パチジ』とも)は、インドに古くからあるゲームで、これを19世紀にイギリスやアメリカで商品化したようだ。この辺りのことについては、Bruce Whitehill, Parcheesi: The Royal Gameが詳しく記している。

ここでユールが参照している文献は、以下のもの。

Peter A. Piccione, “In Search of the Meaning of Senet.” Archaeology 33 (July-August 1980): 55-58.
この論文はウェブでも閲覧できる。

ざっと見ただけなので、見落としているかもしれないが、この論文そのものには、『セネト』が『バックギャモン』や『パーチージ』の先駆とは言明されていないようだった。上記のテキストが、ユールの参照したものと違っている可能性もある。

 

例えば、別の文献では、『セネト』と『バックギャモン』と『パーチージ』を関連づけている例が見つかる。

Oswald Jacoby and John R. Crawford, The History of Backgammon, 1970

このテキストでは、『セネト』に「『バックギャモン』の先駆」と説明が添えてある。また、『バックギャモン』と『パーチージ』が関連づけられている。

 

あるいは

Coral Clark, Senet: An Egyptian Game of Strategy (RAFT)

という『セネト』を解説したテキストでは、『パーチージ』や『バックギャモン』の親戚であるとの一文もある。

 

先ほども触れた

Bruce Whitehill, Parcheesi: The Royal Game (in Knucklebones games magazine, september 2007)

でも、『セネト』が『バックギャモン』タイプのゲームの祖先であると述べられている。

――とまあ、ユールが実際にどのテキストを見たのかはともかくとして、古代エジプトの『セネト』が、『バックギャモン』や『パーチージ』に似ているのは確かである。というのは、これら三つのゲームをプレイしてみても感じるところだ。

 

3-4.地域や文化を超えた共通性

さらに、過去数千年のあいだに作られたボードゲームやカードゲームは、ヨーロッパ・アフリカ・アジアに共通する歴史をふつう持っている。また、アメリカの人類学者スチュアート・キューリンが記録しているように、北米インディアンの文化にもゲームはある(Culin 1907)。こうしたことが示すのは、古典的ゲームモデルに則ったゲームは、大多数の文化においてすでに知られているということだ。

(第1段落、訳書37ページ/原書p. 23)

 

先ほどの、ゲームの場合、数千年にわたって共通性が見られるという話の続きだ。ユールはここでは触れていないけれど、例えば、『チェス』と『将棋』と古代インドの『チャトランガ』なども、そういう意味では共通性があると言えるだろう。

この点に関しては、増川宏一さんの『盤上遊戯の世界史――シルクロード 遊びの伝播』(平凡社)が詳しく追跡している。

 

ここでユールが言及している文献はこれ。

Stewart Culin, Games of the North American Indians (University of Nebraska Press, 1992)

 

スチュワート・キューリン(Stewart Culin, 1858-1929)は、アメリカの文化人類学者。ゲームについては、ユールが触れている北米のネイティヴ・アメリカンのゲームだけでなく、朝鮮、中国、日本、アフリカのゲームについても本を残している。f:id:yakumoizuru:20170703210239j:plain

キューリンについては、やはりユールが参考文献に挙げているアヴェドンとサットン=スミスによるゲーム論集『ゲーム研究(The Study of Games)』でも、第3章の「文化人類学の情報源」の部に、「マンカラ――アフリカの国民的ゲーム」、「アメリカン・インディアンのゲーム」が抜粋紹介されている。

ついでに申せば、The Study of Gamesの同じく第3章の文献リストの項目には、複数文化にまたがるゲーム、アフリカ、ヨーロッパ、オセアニア、アジア、中米、北米、南米のセクションがあり、関連文献が掲げられており、非常に便利である。

キューリンの本も著作権が切れており、Internet Archiveなどでも公開されている。

 

3-5.第2段落のまとめ

 

この第2段落を要約しておこう。もとより短い文章の要約なので、ほとんど原文の繰り返しになるかもしれない。

a) 本章の主題は、ゲームの新たな定義を示すこと。

b) 先行7研究で示された定義(古典的ゲームモデル)を踏まえて、新しい定義を示す。

c) 過去5000年のゲームに妥当するモデルなので「古典的」と称す。

d) 古代エジプトの『セネト』は現代の『バックギャモン』『パチージ』の先駆。

e) 過去数千年、ヨーロッパ、アフリカ、アジアで作られたボードゲーム、カードゲームには共通の歴史がある。北米インディアン文化にもゲームがある。

f) d, eは、大多数の文化で古典的ゲームモデルに則ったゲームが知られていたことを示している。

と、要約を書いてみて、この段落について、もう少し気になることが出てきたが、これについては後で追記したい。 

 

■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」
 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

 

■関連文献

 

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

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Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press) (English Edition)

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