時は明治10年。三つの勢力がしのぎを削る六骨峠にふらりとやってきた一人の侍。いずれかの勢力に加担するもよし、裏切るもよし、傍観するもよし、ただの辻斬りとなるもよし。この侍になって、六骨峠での二日間を過ごすゲーム。それが『侍』PlayStation2用ソフト、AQUIRE、スパイク、2002/02、amazon.co.jp)だ。この作品がかもし出す独特の滑稽味と味わいについては、機会があれば述べてみたいが、ここではさしあたって本ソフトを発売と同時に入手した私が六骨峠の椿三十郎たるべく、しばし(他にやることは山ほどあるにもかかわらず)この作品に没頭し、あまりにも他のことが捗らないのでプレイを禁じたことを報告するにとどめる。


ここで触れておきたいのは、2002年06月21日に刊行された――



新清士『侍はこうして作られた――アクワイア制作2課の660日戦争』新紀元社、2002/06、amazon.co.jp


という書物である。


本書は、著者が先に挙げたゲーム『侍』の開発現場に取材して書いたルポルタージュ作品だ。ゲームの制作過程を日誌のように時間の経過にそって描いている。見だしに添えられる「マスターアップまであと、XXX日」という残り日数の表示が効いている。マスターアップとは、作っているゲームを最終的に商品としてリリースする期日のことだ。その期日は刻々と迫るのに、問題はつぎつぎと発生する。期日といったって所詮は企業が利益をあげるために定めるものじゃないか、といえばそれまでなのだが、その企業の下で利潤の追求に加担することと引き換えにたずきを得ている身としては、端から見てそれがいかに滑稽であろうともこの期日は厳守せねばならないものなのである。


だから本書を読むときには、この残り日数を気にとめながら読むのがいい。とくにディレクターの中西氏が、思い描くゲームを模索しながらも、その思い描かれたものを他のメンバーに伝えあぐねつつ、それでも期日は迫り制作は進むといった状況は、開発の経験がない読者でもはらはらするのではないか。ゲームの根幹が定まらないままそんなに制作が進められてよいものか? そう思うかもしれない。商品として「完成」したゲームを目の前に置き、あるまとまった作品に触れる者の事後的な視点からは、奇異なことに感じられもするだろう。しかし、とりわけ前例がないような作品――とはつまり、「この要素をこのように組みたてておけばとりあえずはおもしろくなりうるはずだ」という作業仮説が立てづらい作品――では、どのようなゲームに仕立て上げるかという模索自体が制作の過程であることが少なくない。実際、本書の報告によれば中西氏が当初目指していたゲームは、ゲーム企画者なら一度は夢想するような自由度のある世界、ゲーム中の他者が自律的に生きているような世界とそこでのゲーム体験をめざしたものだった。プレイヤー以外の登場人物がそれぞれの思考と感情を持って行動する世界。その世界にプレイヤーが働きかけることによって、世界の様相が変化する、それも予め定められたことだけが起こるのではなく、人と人の間に出来事が生じるようにしてなにかが起こる、そんな世界(とは、もちろん本書からうかがえる中西氏の考えを勝手に敷衍しているだけなのだが :-)。


だがそんなゲームを作ることが極度に困難であることもまた、このことを一度は真剣に検討してみたことのあるゲーム企画者なら痛感しているだろう。そのうえでいくつかの方途がないわけではない。かのシェンムーSEGA、1999、2001)は、きわめてまっとうに(?)この課題に取り組み、膨大な分岐を用意した。また、近年多くのプレイヤーを獲得しているネットワークRPGでは、人間同士をプレイさせることによって「自律して行動する他者」をプログラムせずに実現している(かつてテーブルを囲んで人間同士でプレイされたテーブルトークRPGをネットワークを介してプレイしているようなものだ)。しかし先に述べた「理想」では、あらかじめ膨大な分岐を用意するのでもなく、人間同士が互いに「他者」となるのでもなく、一人のプレイヤーがソフトウェアの中に他者を感じる仕組みを目指したものだ、と言うことができる。


本書を通読すればわかるように、そして実際『侍』をプレイすればわかるように、最終的には『侍』もまた、あらかじめ用意された分岐によって構成されている。結果的にプレイしておもしろく、20万本を越えるセールスを実現したのであれば、本作を成功ということは問題ない。だが、本書によってうかがえるゲームの着想と比較したとき、できあがったゲームを成功作と言いきれるだろうか。


もちろん、成功したか/失敗したか、という下世話な判定を下したいのではない。想像された作品と実現された作品の間にあるギャップ。本書を読む私たちはこのギャップについて考えてみたいのだ。いや、すでにこのように考えること自体、作り手の関心にすぎず、プレイするだけの読者には無用の詮索であるかもしれない。しかし、本書を読むおもしろさの大部分は、目指したものと出来上がったもののギャップとそのギャップの生成過程を明確に記録しているところにあるとも思う。実現されなかった意図は虚しいが、なぜ実現されなかったのかを(こう言ってよければ失敗について)考えることからはさらなる創造が生まれるだろう。


本書の魅力は、当事者が同じことを書こうとすれば書かれずに終わってしまうであろうことが、よいことも悪いことも含めて第三者の目から描かれていることだ。ゲームの制作にさいして実際に行われたこと、起こった出来事の総体からすれば、本書の287頁はじつに小さなものだ。けれども、開発の経験も持っているという著者は、現場で発生した出来事を的確にとらえて報告している。――かどうかは実のところわからないわけだが(笑)、本書を読みながら私ははからずも自分が携わってきたタイトルでの苦境をありありと想起した。


ともあれ。類書が少ないだけに貴重な試みである。ゲームに関心がある向きには、という限定をつけざるを得ないのだが一読を薦めたい。


著者のWEBサイトは下記。


⇒漂流するゲーム開発者の記憶
 http://sakugetu.mods.jp/blog/
 *現在は閉鎖されている。