「評家は、猟人に似ていて、なるたけ早く鮮やかに獲物を仕止めたいという欲望にかられるものである。ドストエフスキイも、夥しい評家の群れにとりかこまれて、各種各様に仕止められた。」


小林秀雄ドストエフスキイのこと」(1946)

だが、当然のことながらついにドストエフスキイは誰にもしとめられない。「評家」がしとめたと思い込んでいるのは、じつをいえばドストエフスキイではなく、ドストエフスキイに写りこんだ自分にほかならない。ことはドストエフスキイには限らない。

「人々は音楽についてあらゆる事を喋る。音を正当に語るものは音しかないという真理はもはや単純すぎて(実は深すぎるのだが)人々を立止まらせる力がない。音楽さえもう沈黙を表現するのに失敗している今日、他の芸術について何を言おうか。」


小林秀雄「モオツァルト」(1946)

「ヴァレリイはうまい事を言った。自分の作品を眺めている作者とは、或る時家鴨を孵した白鳥、或る時は、白鳥を孵した家鴨。間違いない事だろう。作者のどんな綿密な意識計量も制作という一行為を覆うに足りぬ、ただそればかりではない、作者はそこにどうしても滑り込む未知や偶然に、進んで確乎たる信頼を持たねばなるまい。そうでなければ創造という行為が不可解になる。してみると家鴨はは家鴨の子しか孵せないという仮説の下に、人と作品との因果的連続を説く評家達の仕事は、到底作品生成の秘儀には触れ得まい。彼等の仕事は、芸術史という便覧に止まろう。ヴァレリイが、芸術史家を極度に軽蔑したのも尤もな事だ。」


小林秀雄「モオツァルト」(1946)

「捕らえたばかりの小鳥の、野生のままの言い様もなく不安定な美しい命を、籠のなかでどういう具合に見事に生かすか、というところに、彼の全努力は集中されている様に見える。生まれた許りの不安定な主題は、不安に堪え切れず動こうとする。まるで己れを明らかにしたいと希う心の動きに似ている。だが、出来ない。それは本能的に転調する。若し、主題が明確になったら死んで了う。或る特定の観念なり感情なりと馴れ合って了うから。これが、モオツァルトの守り通した作曲上の信条であるらしい」


小林秀雄「モオツァルト」(1946)

「大切なのは目的ではない、現に歩いているその歩き方である。現代のジャアナリストは、殆ど毎月の様に、目的地を新たにするが、歩き方は決して代えない。そして実際に成就した論文は先月の論文とはたしかに違っていると盲信している。(……)モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった」


小林秀雄「モオツァルト」(1946)

「彼の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。それは、殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった。或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。(……)模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。(……)だが、今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞こえる程、独創という観念を化物染みたものにして了った。」


小林秀雄「モオツァルト」(1946)

模倣を重ねたうえで、それでも生じる差異や傾向を、もしもそういいたければ独創といってもいいかもしれない。でも、それだけ模倣を繰り返したあとでは(というよりも模倣以外になにがあるのかと自覚した場合)、もはや「独創」とは白々しさを感じずには使えないそんな言葉になりはてもする。

え? 最初から模倣なんてしない場合はどうかですって?