吉本隆明「批評とは何か」(『吉本隆明が語る戦後55年 12』三交社、2003/11)

小林秀雄でも桑原武夫でもいいですが、たとえば彼らがアランというフランスで近代批評をやった人を移植したり、論じたりするとどうなるかというと、文学的になってしまうんです。文学的になると良い意味もあるのですが、悪い意味もあって、破格なところというか、開いているところ、壊してしまっているところを、小林秀雄なんかはつかまえることができなくなってしまうわけです。
小林秀雄がアランを論じると、アランは芸術論を巧みにやった人だとなってしまう。アランはフランスのマルクス主義、革命思想の解体期に一グループをなしていて、スターリニズム以外のものをアナーキズムと言うならば、アナーキズム系のラジカルな政治批評を書き、政治論文を書き、政治的パンフを書いて、自分たちのグループ活動をした人です。そうした部分のアランは、小林秀雄の批評とか移植の仕方では全部すっ飛んでしまう。
「そうすると、良い意味でも悪い意味でもみんな文学青年になってしまうんです。とてもまとまりよく解釈できるんですが、少しも面白くない。どうなるかわからないようなところに開いている場所が、全部すっ飛んでしまうからです。これは今の文芸批評も同じで、フーコーだろうが、デリダだろうが、ドゥルーズだろうが、みんな文学青年になってしまう」