「こういう場所〔朝日新聞書評欄――八雲註〕で『あえて翻訳書を選んだ』という言い方はつつしみたい。翻訳はれっきとした日本語文学であり、つまりは日本文学の一部なのだ」


堀江敏幸 朝日新聞2003年12月21日書評欄「書評委員お薦め「今年の3点」」より

哲学書の翻訳において原文を神聖視するあまり翻訳先である母語を疎かにする傾向について。

「読者の母語を軽視し、評言の明瞭さへの要求を抑えるという敬意の表し方は、むしろ不敬だと思います。しかし今なぜその不敬が許されるのかというと、それは翻訳の仕事が客観的、不干渉、不介入といった理念に従うべきだという前提を、訳者と読者がともに疑わずにいるからです。しかも、この理念に服従するかぎり、翻訳の文書が母語の文体に影響を与える可能性――たとえば、シェークスピアの翻訳がドイツ語に二度と消えない印象を与え、ドイツ文学の古典に入ったように――はほとんどないでしょう」


J.W.ハイジック「哲学翻訳の脱聖化」(『日本の哲学』第4号、2003/12)

「訳者が哲学の翻訳に取り組むときは、少なくとも自分の言語で書かれた文章と取り組むときのように、論理のつながり、論証の流れ、思想の連関、表面まで浮かび上がっていない深い含蓄や歴史的響きを求めるべきです。そうでないと、哲学の文書が普通の言語のはたらきとかけ離れているという印象は避けられなくなるでしょう」


J.W.ハイジック「哲学翻訳の脱聖化」(『日本の哲学』第4号、2003/12)

「西洋哲学の和訳は一つの言語から別の言語への同義的相当物というよりもむしろ、新たな言語の生成なのです」


J.W.ハイジック「哲学翻訳の脱聖化」(『日本の哲学』第4号、2003/12)

「レオナルド・ブルニ(Leonardi Bruni, 1369-1444)はアウルス・ゲリウスの『アッチカ夜話』 Noctes Atticae の一行を誤読して、「導入」を意味する traducere を「持ち越し」、それゆえ「翻訳」と訳しました。ブルニの語源間違いが十五世紀のイタリア語、フランス語にうつり、英語の translate にも繰り返されたのです」


J.W.ハイジック「哲学翻訳の脱聖化」(『日本の哲学』第4号、2003/12)注(3)

この興味深い注記の裏をとってみること。OED、ブルニ、アウルス・ゲリウスの各テクスト、フランス語、イタリア語の仏仏辞典、伊伊辞典を参照。

「オリジナルと翻訳も、また、「アキレスと亀」の関係にある。翻訳はついにオリジナルに追いつくことができない。しかし、それは追いつきえないことによって本質的な「文学のふるさと」なのではないか。翻訳とはオリジナルの無意識(エス)にほかならない。それこそが、ベンヤミン以降の翻訳論が示唆するところだろう」


すが秀実「小説家の誕生とその代償――坂口安吾小論」(『JUNKの逆襲』、作品社、2003/12、所収)