批評のモード――愚劣と1968年


絓秀実(すが秀美)の一連の批評の基調をなしているのは、愚劣への怒りとでも言うべきものだ。ただしそれはたとえば蓮實重彦金井美恵子による厭味節のスタイルがいくらかの迂回を経て(おそらくは)批判の対象をいたたまれなさで身もだえさせるのとは違って、より直截的に敢行される。


最新評論集(JUNK集?)である『JUNKの逆襲』作品社、2003/12、amazon.co.jp)でもそのストレートな批判の矢はあちこち(清水良典、高橋源一郎川西政明加藤典洋小森陽一)に向けて放たれている。同書に収録された評論のほとんどを初出で読んだが、こうしてあらためて一冊の書物にまとめられると、絓(すが)の喧嘩の骨法がいやおうなく感得される次第。もしすがのこうした時事的な発言が実効性を持つならば、文壇における戯言のような言説の流通を幾分でも抑圧するはずだが、さて実際はどうだろうか。そうした抑圧が機能失調に陥っているのもまたすがのいう「ジャンク」な状況の徴候だろうか。(そういう意味ではレスを試みた高橋源一郎はまだしも、ではなかったか)。



それとは別に絓(すが)の批評を駆動するいまひとつの原動力である「1968年」については、今年の五月に集成された1968年論、『革命的な、あまりに革命的な――「1968年の革命」史論』作品社、2003/05)で縦横に語られた。近年、1968年がどのような出来事であったのかをこれだけの幅のなかで示してくれた著作を寡聞にして知らない。ただし同書の意義を十分に認めたうえで思うのは、その68年の出来事を、自分の生前に起こった歴史的出来事としてしか接することのできない世代にとっては、著者がおそらくは暗黙裡に前提としている(せざるを得ない?)「1968年の衝撃」そのものは十全に伝わってこないことが残念だ(これはすが氏の68年論に限らないことだが)。これは読み手の無教養という問題と同時に書き手の問題でもあるだろう。そこですが氏に希望したいのは、一度新書のようなスタイルで、時代を共有しない他者に向けて1968年の意義と衝撃だけを知らしむる書物をつくることだ。ミモフタモナイ啓蒙の作業が必要であることを、「「ゆとり教育」の正体」の著者ならいやになるほど痛感してもいるだろうから。