★加藤倫教『連合赤軍 少年A』(新潮社、2003/12)

「翌朝の朝刊は、同じ日に東京で起こった交番襲撃事件を一面で大きく扱っていた。この交番襲撃は、革命左派の「人民解放遊撃隊」が行ったものだった。目的は交番の警察官を襲い、警察官が所持するピストルを奪い取ることだった。


「まず警察官からピストルを奪って自らを武装し、同様の襲撃闘争を繰り返すことによって人民の武装を拡大していく。そしてある程度大きくなった時点で、「人民解放軍」へと発展させ、最終的に自衛隊在日米軍を撃破して、日本の政権を武力によって奪取する――それが、「人民開放遊撃隊」の指導者だった川島豪が打ち出した軍事路線だった」

「十九歳になる春を迎えてみると、「受験体制粉砕」とか「受験教育反対」と叫んでデモをしていた仲間たちの大部分は大学に進学していた」

「具体的には、赤軍派の九人の唯一の女性である遠山に対して、髪形や指輪をしていること、化粧を女性のたしなみのように考えていることなどに、革命左派側の女性たちから集中的な批判が浴びせられた、という。


「そこから議論が進展して、「組織の個々人がブルジョア思想を克服して、人民に奉仕する革命戦士に自分を鍛え上げなければ革命はできない。銃による殲滅戦は闘えない。ましてや党建設などできない」という観点で、赤軍派と一致したとのことだった。そして、ほぼ一週間後の十二月二十日から、再度両派の幹部間で、双方の党史の総括を行うことになった、と告げた」


あの時代、なにが人をそこまで駆り立てたのか。連合赤軍によるあさま山荘事件に十代の少年としてかかわった著者による回想は、父に抑圧された少年期という以外にはとりたて大きな積極的動機を持たない一少年が、いかにしてこの出来事に参与するにいたったかを当事者の視点から教えてくれる。そこには余人が期待するような、わかりやすく劇的な動機はみあたらない。社会的に抑圧された者たちを解放するために、との動機が少年であった著者にどこまで抜き差しならない動機として作用していたかは不明だが、記述を読むかぎり、彼が共有したものは観念のレヴェルにとどまるものであったように見える。