ジャン=フランソワ・リオタール『聞こえない部屋――マルローの美学』(北山研二訳、叢書言語の政治13、水声社、2003/12)

「ジョイスの『ユリシーズ』〔1922〕は編年史の嘘を明らかにする。語り手による全面的な回想は、欲望によって企てられたとおりであり、イデオロギーである。さて、いわゆる声が、自身の経験をある終了した《想起》〔remembering〕としてまとめるのを、あるオデュッセイアという主題として再整理する〔se remembrer〕のを、禁じるものとは、それは物語の「手段」そのもの、言語〔langue〕なのである。語り手は、言語の回帰を言うために自分がそれを使用していることを信じることができるし、信じさせることができるけれども、言語は語り手の自由にならないし、語り手のもとに《戻る》ことはない。言うことをきかず、多くの意味を担って、矛盾することもある、未知の言葉にせよ、言外の意味や誤用が入った構文にせよ、言語的な素材であれば何でも、意味するという正しい意図を逸らしにきて、意味への忠実さを裏切ってしまう」


そのような意味では、福本和夫の回想録はその破天荒な形式(獄中で考察した動植物についての雑記やひねった俳句などを含む)上、上記されているようなまとまりをすりぬけてはいる。しかし、感慨のレヴェルではやはり他人による自己評価や自己像の提示が欲望によって形をあたえられたものとなっており、読後に感じる羞恥のようなものはどうやらその辺りに根ざしているのではないか、と思う。それに対して、ところどころに挿入される河上肇批判や共産主義者としての活動についての考察は、まるで別人が筆をとったかのようなものになっている。研究対象の分裂気味な広さといい、自己言及のナイーヴさといい、なんとも知れない怪人物である。