隈研吾『負ける建築』岩波書店、2004/03、amazon.co.jp


仕事場で昼休みにこの本を読んでいると、とおりがかりの人が「あれ、家でも建てるんですか?」と言う(まあ、『ジャンキー』を読んでいれば、「あれ? 八雲さん、やっぱりジャンキーなんですか?」と言うわけで、要するに挨拶みたようなものなんですが)。それも一人ならず何人かが同じことをいうからにはなにか人をしてそう思わしむるものがあるんだろうか(いやいや)。


ていうか、表紙にでかでかと赤い字で『負ける建築』って書いてあろうが、諸君。


本書は、隈研吾が1995年以降に建築誌を中心とした諸媒体に発表したエッセイを集めたもの。全体は三部にわかれている。比較的理論よりな文章をまとめた「I 切断、批評、形式」、具体的な建築・建築家・美術(建築)展批評を集めた「II 透明、デモクラシー、唯物論」、建築そのものから少し離れた話題をあつかった「III ブランド、ヴァーチャリティー、エンクロージャー」の三部。


この人の文章は歯切れがよく、読んでいて気持ちがよろしい。たとえばこんな風に。

「ならば、建築はもはや必要ないのであろうか。建築が必要か不必要か。その設問自体の不毛を乗り越えることが本論の目標である。持ち家政策が唱えられ、ケインズが登場した二〇世紀初頭にも、同じ設問がたてられた。建築は必要か不必要か。どんな建築が必要かは問われなかった。建築はなんとしても必要だというのが、そのときに社会が出した答えであった。社会が存続するために。資本制が破綻しないために。革命が起こらないために。とにかく建てることが必要だという粗雑な答えが出された。建てるという切断が必要とされ、切断としての建築が必要とされた。その答えの命じるまま、われわれは走り、建ててきた」


しかし読みながら同時に疑問がついてくる。ここで立て続けにてきぱきと行われる断定は、いかなる資料に支えられ、それをどのように解釈することで出てきたものであろうか(ここが気になる人には逆に気持ちのよくない文章であろう)。


と思って文章をいきつもどりつしてみるけれど、実はそのような論証はない。へんないい方になるのだが、それがこの本に集められた文章の軽快さと愉悦の源泉でもあるのだと思う。もしここに、篤実な歴史書のように膨大な資料の渉猟から得られた知見やその読み方などの傍証がどどっと挿入されていたら、うえに引いた文章を論じるだけで一冊の書物になるにちがいない。


これが建築を論じる文章の作法に由来するものなのか、著者の文体や論述の姿勢によるものなのかはわからない。書かれていることを積極的に疑ったりもしないかわりに、断定されているあこれこの事柄の真偽もあまり問題ではないように感じる。ただ、リチャード・パワーズの小説を愉しむように愉しめたのはたしかだ。


――と思っていたら、ゲームについて書かれた文章「ヴァーチャリティーとパラサイト」(「ヴァーチャル・ワールド」「リアル・ワールド」!)が第III部に収めれている。これなら元ネタを熟知している分だけ、論述の性格がよく見えるにちがいない。そう思って検分してみると。


隈研吾建築都市設計事務所
 http://ux01.so-net.ne.jp/~kuma/
 昨年の六月から更新されていない模様。