精神分析への抵抗


十川幸司精神分析への抵抗――ジャック・ラカンの経験と論理』青土社、2000/09、amazon.co.jp)を棚からひっぱりだして拾い読む(拙書棚のフロイト著作集の前に面差しで、フロイト先生を覆い隠すように置かれていた)。


ラカン(へ)の『抵抗』」という文章は、愚生のような門外漢にはありがたい文章だ。というのもそこでは「精神分析が科学であるとしたら/科学でないとしたら、それはどのような意味においてか」ということ、フロイトラカンそれぞれの科学志向(嗜好)の差異が明確に論じられているから。


マテーム(概念の数学的表現とでもいったらいいのだろうか)に凝った晩年のラカンは、臨床(経験)との相克関係を失った理論、簡単にいえば「為にする理論」にハマったわけだが、そもそも数学が記号を意味から分離して操作できるようにしたひそみにならって精神分析の理論をマテームにより記述しようとしながらも、そのじつマテームを理解するには事前の意味付けを共有していなければならないという罠や数学の記号のように意味を離れて演算をするわけにはいかないという罠がある。


この失敗は無理に救い出す必要はなく、むしろここからラカンの考えたことの可能性を逆照射すればよい、と戸川さんととも思った次第。


だからなに? ってな話ですが。ええ。


というか、結局のところ精神分析が科学ではないとしたら、それがまったくのでたらめでもないということがどのように検証されうるのだろうか。