書店で大演説にでくわすのこと


「たしか筑摩書房の「ちくま日本文学」にあったよなァ」と書店の文庫コーナーで武田泰淳の本を探していると、その筑摩書房の文庫が並べてある棚のまえで青年二名が大きな声でしゃべっているのにでっくわす。


その声はずいぶん遠くから聞こえていただけのことはあって、現場に近づくとやかましいことこのうえない。なにをそんなに熱心に語っているのか。いや、愚生とて談話は嫌いではないけれど、熱のこもり方がちょっと穏やかでない。


もっぱら演説をぶっているのは一人で、もう一人は聞き役に徹している*1


「なぁ知ってる? そもそも『近親相姦』ていうのは20世紀にはいってフロイトがつくった言葉なんだ!!」


――え”?(とは小生の驚きの声)


「『近親相姦』というのは学問的な用語なんだよ。そういう学問的な言葉を文学の翻訳に使うなんておかしいんだよ!! 」


――お、おい、聞き手の青年よ、なにか反論をしなさい、もさーっと頷いてないで。(それとも聞いてないのか? それともスルーしているのか?!)


「そんなの心理学の俗流化だよ。訳者が無知だから『近親相姦』だなんてその時代にはないはずの学問の専門用語を使いたがってるんだな。バカなんだよ! 松岡和子はなんにもわかってないんだよ! ンとにダメだよなァ!」


……あ、ああ。シェイクスピアの『ペリクリーズ』の話をしているんですね(きっと)。それにしても無茶苦茶いうなァ。一点突破(のつもり)の全否定とは。



小生が探していた泰淳の本は、彼らがいるまん前の棚にあった。ちょっとごめんなさいね、といいながらその本を取り出してなかを検分する。そうそう、「もの喰う女」を読みたいのです。主人公のTが「神田のかなり品の良い喫茶店」で働く女性に会う話*2


目的のブツを手にした小生は、なおもなにかを叫び続ける青年をあとにその場を去った。


青年の主張の趣旨がいまひとつわからなかったのだけれど(そもそも聞き違えてるかもしれない)、気になったので帰宅してから『ペリクリーズ』をひもといてみた。なぜ『ペリクリーズ』なのか? 確証は持てないのだが、彼(ら)の会話に含まれる言葉からつぎのように推測したのだった。



・翻訳+松岡和子さん+ちくま文庫(の棚の前)→シェイクスピア
・近親相姦+シェイクスピア→ペリクリーズ
(・近親相姦+フロイト→「トーテムとタブー」?)


ページを繰ってみると、たしかに戯曲の冒頭で、語り手の詩人ガワーが前口上でこう述べている。

さて、ここはアンタイオケ、アンタイオカス大王が
築き上げ、玉座を占める
シリアきっての美しい都――
昔の書物にもそう記されております。
この王はかつて妻をめとりましたが、
妃は一人の姫を残して亡くなりました。
その姫は明るく快活、ふくよかにして美しく、
天の恵みを一身に受けたかのよう。
姫に惹かれた父王は
近親相姦へと引きずり込む。

『ペリクリーズ』シェイクスピア全集11、松岡和子訳、ちくま文庫し10-11、筑摩書房、2003/02、amazon.co.jp


なるほど、この「近親相姦」の訳を彼は問題にしていたわけだ。原語はたぶん "incest"。というので原文を見てみると――

This Antioch, then, Antiochus the Great
Built up, this city, for his chiefest seat;
The fairest in all Syria,
I tell you what mine authors say:
This king unto him took a fere,
Who died and left a female heir,
So buxom, so blithe, and full of face,
As heaven had lent her all his grace;
With whom the father liking took,
And her to incest did provoke:

Pericles(Project Gutenberg


たしかに "incest" ですね。


ということは、彼が問題にしていたことは、この "incest" という英語を「近親相姦」という漢語に翻訳するそのことだろうか。


いちおう "incest" のもとになっているラテン語 "incestum" を『羅和辞典』(研究社)でひいてみると――

incestum, i, n.[incestus] 淫乱、近親相姦


とある。といっても、彼が松岡さんの訳語を非難していた論法でいくと、この羅和辞典の編者も同様に非難されかねないわけだけれど。


うーむ、いったいあの青年はなにを問題にしていたのか?*3



川田順造編『近親性交とそのタブー―文化人類学と自然人類学のあらたな地平』(藤原書店、2001/12、amazon.co.jp)を読んだらなにか書いてあるだろうか。

*1:以下、私が聞いた範囲を記憶で再現してみました

*2:この作品のことを教えてくださった小生のお師匠さま(の一人)は、講談社文芸文庫のアンソロジー『戦後短篇小説再発見(2)――性の根源へ』(2001/06、amazon.co.jp)をご教示くださったのでした。「もの喰う女」は同書にも入っています。ところで愚生は同書を蔵書している可能性が高いので今回はちくま版を手にしてみたのでした。って、それなら「もの喰う女」を読むのが目的なら買う必要ないじゃん。orz その本が書棚から見つかれば……。

*3:聞けばよかった。