考えるということ



小林秀雄+田中美知太郎「教養ということ」(1964)

小林 ぼくら考えていると、だんだんわからなくなって来るようなことがありますね。現代人には考えることは、かならずわかることだと思っている傾向があるな。つまり考えることと計算することが同じになって来る傾向だな。計算というものはかならず答えがでる。だから考えれば答えが出るのだ。答えが出なければ承知しない。


田中 たとえば、新憲法に賛成ということをいいたいために文章を書く。これは考えるのではなく宣伝ですね。新憲法の実体に取り組んで考えてみようという場合には、結論は賛成か反対かわからないわけですね。それが考える文章というものでしょう。


小林 文章の結論がどこへ行くかわかってしまえば、自分でもおもしろくないですね。だからわかっていることをぼくはけっして書こうとは思わない。どうなるか楽しみなんだな。そのかわり、書いていくことと考えることがいっしょなんですよ。ぼくなんか書かなくちゃ絶対にわからない。考えられもしない。


田中 ソクラテスなんかの場合だと、賛成とか反対とかはどうでもいいことで、問答でどっちへ変わっていくかわからない。「ロゴスが動くままに身をまかせる」という意味の有名な言葉がありますね。ただ結論をはじめから決めてかかるというジャンルは昔からあったわけで、法廷弁論がそうですね。検事は有罪、弁護士は無罪という結論を出さなければならない。ぼくはよくからかうのだけれども、日本の言論界はだいたい法廷弁論型ですね。


だいたい日本人は法律論が好きですね。憲法第何条に違反しているか、いないかといった議論ばかりしていて、国策としてどちらが役に立つかを考えない。あれは政治の議論ではない。政治家というものは、結果的には、自分の最初の議論を否定しても国利民福にプラスするようなものが何か出せるという、リアリスティックな精神がなければだめですね

小林秀雄全作品25――人間の建設』、新潮社、2004/10、pp.56-57)