岡田温司マグダラのマリア――エロスとアガペーの聖女』中公新書1781、中央公論新社、2005/01、amazon.co.jp)#0110


マグダラのマリアは、「娼婦」であると同時に「聖人」という属性が与えられている。考えてみれば、この人物像はなにに由来しているのか? 新約聖書にあらわれるマグダラのマリアはどんな人物として描かれていたか、といわれても思い出すことができない。折々に触れるキリスト教を主題にした絵画で、マグダラのマリアが扱われているさいに、「娼婦にして聖人」という説明を読んだことがあるようにも思う。

この聖女が、これほどまで両極端ともいえる解釈や表象を許してきたのは、どんな事情によるのだろうか。この聖女はいかなる想像力の産物なのだろうか。西洋のキリスト教は、この聖女にいかなる願望や欲望を投影してきたのだろうか。

(同書、p.v)


ここで「両極端」とはもちろん、先に述べた「娼婦」と「聖人」という二つの属性をさしている。この一見あいいれないと思われる二つの性質はどのようにしてひとりの女性に仮託されるにいたったのか。これが本書の問いである。


著者・岡田温司(おかだ・あつし, 1954- )はこの問いを携えて、原始キリスト教時代からバロックまでのイタリア芸術・文学・宗教書に取材しながら、マグダラのマリアの変貌をたどってゆく。


この過程であきらかになるのは、「四福音書」の段階ではマグダラのマリアが「回心した娼婦」であることは記述されていないにもかかわらず、時代がくだるにつれて彼女のうえに複数のイメージが重ねられてゆき、現在わたしたちが知るマグダラのマリア像が生成してゆくことだ。

時代を経るごとに、彼女は、次々と新しい装いで、わたしたちの前にその姿を現わす。マグダラのマリアとは、まるで、そこにわたしたちの欲望や願望、期待や不安がそのつどそのつど書き込まれていく、「重ね描き写本(パランセプスト)」のようなものである。

(同書、pp.30-31)


著者は、90点強の図版を提示しながら、このパランセプストを丁寧に読み解いてゆく。ひとつのテーマにかかわる絵画(彫刻)をこれだけまとめて見られるだけでも十分にありがたいのに、くわしい解説までついているなんて。