★テッサ・モーリス=スズキ+吉見俊哉『グローバリゼーションの文化政治』(グローバリゼーション・スタディーズ2、平凡社、2004/11、amazon.co.jp)#0140*


グローバリゼーション・スタディーズ叢書第2巻(第1巻は、山之内靖+酒井直樹編『総力戦体制からグローバリゼーションへ』、第3巻は、伊豫谷登士翁+姜尚中編『グローバリゼーションの政治経済学』)。

・伊豫谷登士翁「「グローバリゼーション・スタデイーズ」刊行によせて」
・テッサ・モーリス=スズキ+吉見俊哉「編者序文 グローバリゼーションの文化政治」


第I部 文化ヘゲモニーと対抗的実践
吉見俊哉「グローバリゼーションとアメリカン・ヘゲモニー
・テッサ・モーリス=スズキ「グローバリゼーションと新しい文化経済」
デニス・アルトマンHIVエイズとグローバリゼーションの政治経済学」


第II部 混成化とディアスポラ
亀井秀雄ピジン語の生まれる空間――横浜居留地の雑種語」
・ウマ・ナラヤン「文化を食べる――インド料理をめぐる食文化の取り込みとアイデンンティティ」
・本山謙二「移動の経験によって生成された音と「うた」―― 一九二〇〜一九三〇年代の普久原朝喜の活動を中心に」


第III部 アイデンティティ・ポリティクス
・イエン・アングディアスポラを解体する――グローバル化時代のグローバルな華人性を問う」
岩淵功「スペクタクル化される「ナショナル」の饗宴――メディアにおける「普通の外国人」の商品化」
・ケヴィン・ロビンス「空間を横断する思考――トランスナショナルなトルコ系テレビジョン」


個々の論文には興味深いものもあるのだけれど、全体としてなぜこのような論文になっているのか、という意図は量りかねた。編者二名による「グローバリゼーションの文化政治」という序文のなかにつぎのような言葉がある。本書は、グローバリゼーションと文化の関係を考察することであるとしたうえで、次のように述べている。

(……)ここで必要なのは、文化を日常的実践の政治として、幾重にも矛盾を孕み、抗争し、連携し、排除や隠蔽、忘却と再審が行われ続ける、歴史的な厚みを持った政治の営みとして認識することであろう。文化を決して一つの意味、規範、体系に向けて統一された実体として考えるのではなく、絶えざるせめぎあい、異なる定義やイメージの操作、発話行為がぶつかりあう亀裂を含んだ場として理解すること。

(同書、p.15)


本書はそうした複数の「場」のありようについての、諸報告なのだろう。その意義を認めたうえで気になるのは、先にも述べたように、こうした諸側面を一冊の書物に集めることの意図だ。無限にありえるだろう観点から上記目次の観点が選び取られたわけはなんのだろうか。あるいは、そうした意図などとは関係なく読者に諸問題を提示したかったということだろうか。というよりも、こうした私の疑問は、単に「文化」というテーマに起因しているような気もしてきた。「文化」ってなんだろう?