文學界第59巻第6号、2005年6月号(文藝春秋社)


北野武インタビュー——時代劇では、恥ずかしくなく遊べる」


カイエ・デュ・シネマ誌第600号に掲載された北野武監督へのインタヴュー。
聴き手は蓮實重彦氏。


北野氏がいつか撮りたいと語っている『秀吉』からはじまり、従来作や芸歴をめぐってさまざまなエピソードが紹介されている。


『秀吉』は、万単位の規模の合戦場面が必要なのだが、それを役者で実現するには資金がいるし、さりとて現在のCGの技術水準ではまだ満足できないと述べている。思えば私たちはいつのころからか「これはCGだ/CGではない」という見方で(も)映画の画面を眺めるようになった。


なぜボツになった脚本が一本もないのか、TV番組にも多数出演している武監督がどのように映画制作や出演のための時間を捻出しているのか、教授に就任した芸大ではどのように映画を教えるつもりなのかなど、とりわけ創作に携わる人には興味ある話題も多い。北野氏の一人称が「私」ではじまり「僕」、「俺」となるものの「おいら」でないために、TVでしゃべっている印象とのずれがあっておもしろい。


以下は北野氏の言葉から。

テレビ番組というのは、自分がそろそろそれに飽きた頃に一番人気がでるものなのです。その時に「梯子をかけかえ」ない番組は必ず落ちていく。だから、観客から絶頂だといわれる時に、自分はもう飽きた状態になっていなければならない。そのときかなり先を走っていないとダメになります。映画を撮っていても、そのことはたえず意識しています。


カイエ誌では600号の特別付録として北野武氏監修のブックレットを制作。今回本誌に掲載されたインタヴューは同ブックレットに掲載されたもの。ただしフランス版でカットされた部分もふくめて掲載されているとのこと。


内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」は第六回。茂木健一郎氏の「脳のなかの文学」は第十五回ほか。第100回を数える文學界新人賞発表は、当選作はなく辻原登松浦寿輝奨励賞を掲載。北田暁大氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」』の書評は、千葉一幹氏。


⇒作品メモランダム > 2005/04/25 > CAHIERS DU CINEMA
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050425/p2


文藝春秋 > 『文學界
 http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/


⇒OFFICE KITANO
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