★ゲアリー・マーカス『心を生みだす遺伝子』(大隈典子訳、岩波書店、2005/03、amazon.co.jp)#0409
 Gary Marcus, THE BIRTH OF THE MIND: How a Tiny Number of Genes Creates the Complexities of Human Thought(Basic Books, 2004)


本書のテーマは端的に原題に示されている。つまり直訳すれば、「心の誕生——いかにして少ない遺伝子から複雑な人間の思考がつくりだされるのか」となろうか。


といってもこれは努力目標のようなもので、実際には思考をつくりだす遺伝子なるものが「発見」されたり「同定」されているわけではない。もう少し詳しく述べれば、こういう理路である。


人間の心は脳によって実現されている。その脳は遺伝子と環境によって形成されている。では脳の形成にたいして遺伝子はどのような役割を果たしているのだろうか? 要するに心を実現する生物的な条件である脳を実現する生物的な条件である遺伝子の働きから脳について発生学的に考えてみよう、というのが趣向だ。


THE BIRTH OF THE MIND: How a Tiny Number of Genes Creates the Complexities of Human Thought
遺伝子と脳と心の関係と聴くと、ひょっとしたら普段、心という言葉で考えているさまざまな事柄に対応する遺伝子があるという話かと思う向きもあるかもしれない。ひとつの遺伝子にひとつの形質が対応している、という発想だ。著者・ゲアリー・マーカス(Gary Marcus)が本書の冒頭でまっさきに注意するのはこのありがちな誤解である。ゲノム(一揃いの遺伝子群)は生物の青写真、つまりそのとおりに生物がつくられる設計図ではないし、遺伝子が形質に一対一で対応しているわけではない。また、考えてみれば当たり前のことだが、ヒトゲノムに含まれる遺伝子は数万のオーダーといわれているのに対して、人間の脳に含まれるニューロン(神経細胞)の数は数百億のオーダーだ。


以上を考慮した上で書名に示された本書のテーマをより正確に言い直せば、人間の脳を形成させるにはあきらかに数が少ない遺伝子がどのようにこれほどまで複雑な器官をつくりだすことができるのか(そしてもちろん器官は脳だけではない)ということである。


というわけで本書の2/3は、遺伝子学と発生学の観点から、ゲノムや遺伝子が脳の形成にどのような貢献を果たしているのかについて、現時点でわかっていること/わかっていないことの解説にあてられる。残りの1/3では、著者の専門である言語獲得に焦点をあてながら遺伝子と脳と言語の関係が論じられる。


とはいえ、著者も言うように実をいえば脳と言語の関係自体がそれほどあきらかになっているとは言いがたいだけに、目下のところ言語と遺伝子の関係も明確になるわけではない。言語の運用にたいして必要条件として機能する遺伝子(FOXP2)なども見つかっているものの、それは「明らかに言語だけに特別なのではない」(175ページ)のだ。


The Algebraic Mind: Integrating Connectionism and Cognitive Science
思うに、今後遺伝子の働きがさまざまに解明されてゆくと思われるが、その場合でも遺伝子と言語、遺伝子と心の関係について判明することは、遺伝子がいかにして言語の習得を可能にするような脳を発生させる必要条件たりえているか、ということにとどまるのではなかろうか。つまり、言語は人間に生得的な機能であると考えたい人にとって有力な遺伝子学的な証拠はついに見つからないのではなかろうか。それは、人間がさまざまな能力を習得・発揮する——自動車をうまく運転するとか、ピアノを演奏できるなどの——さいには間違いなく脳がある働きをしているとしても、その働きを可能にした条件である遺伝子が自動車を運転する能力やピアノを弾く能力に直接関係しているわけではないのと一般である。


——という風に、本書の効用は「遺伝子がわかれば脳がわかる、ひいては心がわかる」式の思い込みを払拭するための基礎知識を読者に授け、遺伝子学と発生学の観点から心と脳の解明に何を期待してよいのかということを、現段階でわかっていることに基づいて明示してくれる点にあると思う。以上のメモランダムから、本書は遺伝子と心の関係についてむしろ何がわかっていないかを述べた書物だと思われるかもしれない。実際そうなのだけれど、これは本書に価値がないという意味ではない。その逆である。わかっていないことをわかったと思い込んでしまうよりも、自分(たち)は何がわかっていないのかをはっきり理解することは肝要である。とくに進展著しい遺伝子学はメディアのエエ加減な解説やトンデモ本にことかかない分野でもある。脳や遺伝子に関心のある向きは目を通しておいて損のない一冊だと思う。


最後に瑣末なことになるが邦訳書について一点コメントしたい。


本書には原註のほかに訳註が付されている。のだが、肝心の註の内容は本書に印刷されていない。では註の中味はどこにあるかというと、岩波書店のウェブサイトにPDFで置かれている(ついでに述べると邦訳書で指定されているURL〔http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0228530/〕にアクセスすると別の書物にわりあてられたページが表示される)。ウェブサイトにあるPDFファイルをダウンロードして必要なら印刷して参照せよ、ということなのだろうけれど、この仕組みは註を含めて書物全体を読みたい読者としてははなはだ不便である。訳註はもともとサーヴィス精神によるものだと思えば書物中になくても仕方がないと思う。しかしその場合でもせめて原註は書物の一部として印刷しておいてほしいと思う(というかなぜそうなっていないのか謎)。


岩波書店 > more info > 『心を生みだす遺伝子』
 http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0053890/top.html


⇒NY University > Department of Psychology > Gary Marcus(英語)
 http://www.psych.nyu.edu/marcus/