『新潮』第102巻第7号、2005年7月号(新潮社)


第18回三島由紀夫賞は、鹿島田真希(かしまだ・まき, 1976- )氏の『六〇〇〇度の愛』(『新潮』2005年2月号、掲載)。選評のほか、笙野頼子(しょうの・よりこ, 1956- )氏との対談も掲載されている。




01:谷沢永一坪内祐三「雑書宇宙を探検して」


明治・大正の雑書(学会・文壇・ジャーナリズムで価値を認められていない書物)600冊以上から文章を抄録した大著『遊星群——時代を語る好書録』(明治篇・大正篇、和泉書院、2005/01、)を上梓した谷沢永一(たにざわ・えいいち, 1929- )氏と、坪内祐三(つぼうち・ゆうぞう, 1958- )氏の対談。


谷沢 いま手をうたないと永遠に失われてしまうであろう雑書や雑本を、少しずつでも残しておきたいというだけでした。見たことがない本はすべて買うという方針をたてて、まず集めることからとりかかったわけなんです。

(強調は八雲)


このような仕事のおかげで普段目にしている文学史なるものがなにを捨象してできているかが垣間見えてくる。問題があるとすれば、ここに抜粋されている書物を読みたいと思っても、おいそれ手にはいらないということだろうか。


和泉書院 > 2005年1月の新刊情報
 http://www.izumipb.co.jp/sinkan/05jan.htm




02:蓮實重彦「「赤」の誘惑——フィクションをめぐるソウルでの考察」


第二回「世界文学フォーラム」(@ソウル)で発表された英文論考の邦訳版。「フィクション」という言葉の定義をめぐる文学者や哲学者の混乱から説き起こし、書かれた言葉はつねに書き手の意図を離れて漂流し、意味のズレを生み出してゆくものだというデリダ(のオースティン=サール批判)主張を援用しつつ、実際にフィクションの身分を論じる哲学者の作品や小説から「赤」という言葉の使われ方を抜き出し並べることで、そこに個々のテキストからは離れたテーマ——「言説の論理を超えたかたちで類似した言語記号を引き寄せ、差異のシステムの外部に形成される吸引力」——が浮かびあがることを示す論考。


言語という仕組み、つまり、自分のものだけではない言葉を用いて作品する限りは、蓮實氏が言う「テーマ」はいかようにも指摘しうるものではなかろうか、というはからずも抱いた疑問は、そもそも蓮實氏にこのような論考を書かせることになったフィクションをめぐる言説の混乱状況に向けるべきものかもしれない。とまれ、本論考を含むはずの「フィクション論」の全体(新潮社より『「赤」の誘惑』として刊行予定)があらわれるを待ちたい。




03:池田雄一「解釈学的評論の逆襲?」



田中和生『あの戦場を越えて——日本現代文学論』講談社、2005/04)の書評。池田氏は、作品解釈の方法を、解釈学的読解(作品の「向こう側」に隠されている意味を読み込む)とテキスト論的読解(そうした読み込むべきものを前提とせず、作品それ自体を自立的なものとして読む態度)に大きく二分したうえで、田中氏の読解を前者であると論じる。

テキストの読解コードが、他者に共有されたり、制度化されたりすると、謎のエリート意識をもったサロン的集団や、高圧的な教育として、たちの悪い権威のようなものに転化する可能性がある。おそらく田中氏や、加藤典洋のような論客が解釈学的な方法に向かうのは、そのような理由によるものと思われる。もちろん八〇年代における吉本隆明の後にそのような評論ができるのか、という疑問はあるが。


こうした状況下でなおも加藤氏のように踏ん張るのか、(まさに前述したばかりの)蓮實氏のように魅惑的だけれど怪しげでもあるテーマから読むのか。はたまたそれとは別の方法に拠って——たとえば「徴候」(斎藤環)として——読むのか。


いずれにしても読者として気になるのは、そうした解釈が、誰に、どのような意図をもって提示されているのか、ということだ。




上記のほか、四方田犬彦「「ヨン様」とは何か——『冬のソナタ』覚書」椹木野衣「「うまい」ことの煉獄」山城むつみ「一九四六年一一月三日」など。


⇒新潮社 > 『新潮』
 http://www.shinchosha.co.jp/shincho/index.html