橋本治橋本治という行き方——WHAT A WAY TO GO!』朝日新聞社、2005/06、amazon.co.jp


PR誌『一冊の本』に連載されたエッセイ「行雲流水録」(2001/07 - 2005/01)に加筆・集成した一冊。


「なぜ書くか」「「自分」を消す」「「思想」というよく分からないもの」「在野というポジション」「「アカデミズム」を考える」「「教養」という枠組」「蚊柱のように」「批評言語としての日常言語」「批評とマーケティング」「つっこまない文化」ほか、批評や思想や教養といったキーワードが気になる向きには興味深い話題が地に足のついたことばで多数呈示されている。


思想や教養ということばについて、昔からたくさんのことが言われているが、橋本さんは「思想」というものがいやだと言う。

私がなんで「思想」というものをいやがっているのいかと言うと、「他人の作った正解」に自分を当てはめたくないからだ。自分に必要なのは「自分の正解」で、「自分の正解」を探すために「他人の作った正解」を参考にするのはいいが、それが下手をすると、「他人の作った正解に自分を無理矢理はめ込もうとする」になってしまう。その結果は、「思想の鉄砲玉」になって、肝心の「自分」がどっかへ行ってしまう。それがいやだから、あまり「思想」には近づきたくない。私の十代の終わりは学生運動がピークに達した時代で、「思想に関しては右か左かどっちかを選びなさい。選べないのはバカです」というような時代だった。私は選べないで「バカ」というところへ行かされた人間なので、そういうことを繰り返したくない。

(33ページ)


学生運動が終わって思想が左右の選択から解放されたあとでは、さすがに選ばないとバカ呼ばわりされるということこそなくなったけれど、思想とどうつきあうかという問題はつねにある。


ことに他人の思想にふれはじめるときに、もっともむつかしいことのひとつは、ここで橋本さんが指摘していることではないかと思う。ものを考えるときに、肝要なことは自分の問題をうまく把握することだ。しかし、他人の思想に接しはじめる頃にはなかなかそのことが分からない。分からないから自分が「他人の問題」を「他人がつくった正解」で考えていることに気づかぬまま何かを考えている気分になって「デリダが言うように」だなンて言ったりもする(もちろん、「デリダが述べたこれこれのことを自分は妥当だと考える。そのうえで思考の経済のために引用するのだが、デリダが言うように」という妥当な場合にも同様の表現を使うのだからして一概にこのような表現が問題なわけではない)。かといって全部ゼロから無手勝流で問題に取り組むことも非才の身には無理なことで、一定度は「他人がつくった正解」を参考にする必要もある。


橋本さんが考える「教養」はこのあたりのことに関係していると思う。

私は「教養」というものを、料理における「食材」と同じものだと思っている。だから、ないと困る。それで言えば、私にとって「学問」とは、「料理の仕方」である。出来るようになればいいんだから、別に「調理士養成学校へ行くこと」が、その唯一の道だとは思わない。(中略)「教養」というものを「調理された料理」と思っていて、大学というところを「料理を食べるところ」くらいにしか思っていない人が、いくらでもいる。

(106ページ)


作ってもらったものを食べるのではなく、食材を使ってともかく自分で料理をおぼえること。他人が発見した問題や他人がつくった正解を食材として遇すること。食材を食材として遇せるようになるためにはどうしたらよいか。師につくのはよい方法だと思う(内田樹『先生はえらい』)。たとえ師がなにも教えてくれないとしても、師の前で何かを考え述べることによって、弟子はつねに自分の考えが不十分であること(とりわけ問いが不十分であること)を「また師の前で莫迦なことを言ってしまった」という羞恥とともに自覚させられるからだ。


それとは別に(同時に)書物を師とする方法もあるだろう。ある書物を読むなかで、理解できないものに出会い、その分からなさを糧に何度でもその書物に向かい合ってみる。そうするなかで他人の書物にあらわれる他人の問題、他人がつくった正解と、自分の問題との距離や、参考になること/ならないことが見えてくる。

教養というものは、別に万巻の書を読まなければ身につかないものではない。必要なのは、所詮「何冊かの本」だ。何冊かの本の一冊一冊を納得のいくまで読み込まなければ、「教養」を「教養」たらしめる構造を理解出来ない。その根本がなかったら、本を何万冊読んでも同じだ。

(98ページ)


自分の問題にとって参考になるか/ならぬか。これはある作品を評価する基準のひとつになる。逆に考えれば、そうした問題をもたぬまま漠然と作品の「よい」「わるい」を述べる場合、それは単なる好みの表明に終わるか、意味不明の断定になる。

私にとって、批評とは、まず「ほめること」である。なんでほめるのかと言えば、「あ、こういうものがほしかった」と思うからである。私の基準は、「いるか、いらないか」である。(中略)「私はこれが必要だ」のほめ言葉には意味があるが、「私はこれを必要としない」は、批評としては意味がない。世の中には、それを必要とする「他人」もいるかもしれない。「私はこれが必要だ」が肯定されたら、別の他人が言う「私もこれが必要だ」だって、肯定されなければならない。他人が必要とするかもしれないものを否定するのだったら、「社会にそれは必要がない」という、別種の大きな前提を立てなければならなくなる。そしてそうなった時、「私は社会である。だから、私が”いらない”と思うものは、社会にとってもいらないのである」という論の立て方は、ムチャだろう。こう言えば「ムチャだ」とは分かるが、しかし人は、往々にして、「私は社会である」という、とんでもなく妄想的な前提に立ってしまう。そして、「私はいらない」と「私はいる」の二者が、不毛な論争を繰り返すのである。

(147 - 150ページ)


批評と学問のちがいはこんなところにあるのだろう。学問では、必要/不要のまえに、当該学問が記述する対象についての記述が妥当である/妥当ではないという判断がある。批評という営為がアカデミーの外にありつづけることを、すこし不思議に思ったこともあったけれど、このように考えてみるといくぶん腑に落ちる。