『死者との結婚』(1960)


身重の石井光子小山明子)はビルの屋上から身を投げようとしていた。傍にいる男(高野真二)が言う。「そうしてくれたら手っ取りはやくてこちらはありがたいんだぜ」。飛び降りを止めた光子は、生きることを選ぶのだった。しかし、男との別れは彼女の心に重くのしかかる。お腹のわが子とともに汽船から身を投げようとしているところを青年に助けられ、この小さな出会いがきっかけとなり、光子の人生は思ってもみない方向へと進むのだった(さすがに青年と恋に落ちてハッピーに、というお話しではない)。


ネタバレを回避するために、このあとのストーリーはすべて伏せておかざるを得ないのだが、観終わった後にだけ意味がわかるように書けば、秘密が露呈しないことによってかろうじて成り立つ安寧というサスペンスの効果を、映画は手際よく生み出している。


「ご都合主義」という言葉がある。定見がなくそのつどの都合によって言動をとる、という意味だが、映画や小説に触れてしばしばこの「ご都合主義」感とでもいうような感慨に襲われることがある。その正体はなにかといえば、ストーリーの現状が潜在させているあらゆる変化の兆しをないことにして、無理やり作者が念頭におく道筋を辿るその意図が、観客(読者)にすけてみえてしまうことではないだろうか。


ストーリーの進みゆきにご都合主義を感じたとき、人は「そんなにうまくいくわけないだろう」とツッコミを入れる。要するに作者の作為ありありというわけだ。作中に、作者の意図を阻み疎外する他者やノイズが不在で、すべてが作り手の意図に直接奉仕する。それが作り手と作品の関係というものだろう、という話しでもあるのだが、それがあまりにも酷いと「莫迦にするねい」と言いたくなる。


そうかといって、ご都合主義を感じさせないために作中人物(そして観客/読者)が「予期せぬ要素」を入れればよろしいかといえば、これまたそれほど単純な話しではない。というのも、しばしばご都合主義的映画が失敗するのは、まさに「予期せぬ要素」をご都合主義的に使ってしまうという過ちによるからだ。


といっても一概にご都合主義がいけないわけでもない。それを逆手にとって笑いをとるという手法もあるだろうし、お話しはつけたりみたようなものだが作家が本当に取り組みたい映像の部分はものすごい、ということだってあるだろうから。


なぜここでご都合主義の話しなどを持ち出したのかといえば、管見ではウィリアム・アイリッシュ([Cornell Woolrich], 1906-1968)の小説、『死者との結婚』(I Married a Dead Man)(中村能三訳、ハヤカワミステリ文庫9-3、早川書房、1976/11[1948]、amazon.co.jp)という作品自体が、普通に描いたらご都合主義になってしまう状況設定を逆手にとって、それに挑戦したものだと思うからであった。そして、同作を原作とする映画もまた、この課題を別の形で引き受けている。文字だけがなしえる説得力とは別に映画の言葉、映像と音によってそのご都合主義的な状況設定を説得力あるものに変えてゆかなければならない。


その成否は、ご覧になってのおたのしみ。