ユリイカ第37巻第9号通巻510号、2005年8月臨時増刊号(青土社、2005/08、amazon.co.jp


臨時増刊号の総特集は加野瀬未友氏とばるぼら氏の責任編集による「オタクvsサブカル!——1991-2005ポップカルチャー全史」。ブックデザインは、HOLON。


◆1:「せんそう?」


それにしても「オタクvsサブカル」という戦いは、どこで戦われているのだろうか。本誌に掲載されている西島大介氏の漫画「サブカルVSオタク最終戦争」が描くように人気のない(というか、いるとしても事情がわからぬ非当事者がちらほらと遠くから眺めている)荒野で人知れず派手に行われているのだろうか。たしかにときどきネット上やその辺で、「このオタが!」とか「サブカル野郎!」といった罵詈雑言が(ときに冗談として、ときに本気で)飛び交うのを見聞きすることはある。レッテルを投げつけあう両者が、はたしてほんとうに「オタク」なのか「サブカル」なのか、ということからして実はわからないのだが、それ以上にわからないことは、なにゆえそうした反目が起こるのかである。


⇒島島 simasima
 http://www.simasima.jp/
 西島大介氏のウェブサイト。ヴェトナム戦争に取材した新作『ディエンビエンフー』(角川書店)発売間近。


◆2:オタク/サブカル


『サブカルチャー神話解体』(PARCO出版、1993/11)
そのまえに、言葉について見ておきたい。「オタク」にしても「サブカル」にしても、非当事者にはわかったようでよくわからない言葉だ。


まず、いずれの言葉も、ある人の趣味嗜好のあり方につけられるレッテルである。趣味嗜好とは、世界に存在するもののなかから何をどのように受け入れるかという選定の問題だ。音楽や映画や文学その他の諸作品について、人は日ごろから「好きなもの」と「嫌いなもの」(と「知らないもの」)、つまり趣味嗜好をもっている。オタクやサブカルもまた趣味嗜好の或るあり方には違いない。では、なにに対する趣味嗜好なのか。


オタクといえばなんとはなしに、アニメ、ゲーム、漫画、アイドル、声優といった領域を好み、サブカルといえばなんとはなしに、メジャーに流通しているものとは異なる基準で価値を見出す人という印象が流通している。しかし、オタクではないアニメ愛好者、オタクではないゲーム愛好者というあり方もあることを思えば、オタクのオタク性は愛好する対象(だけ)によるものではない。また、サブカル(チャー)も語源的に対立するところのメイン・カルチャーの状況如何によってメイン/サブの関係は流動的であることを思えば、愛好する対象がなにか固定しているわけではない。よくも悪しくもクラシック・マニアやホラー映画好きといった趣味嗜好のようなわかりやすさはない。


ばるぼら氏は、巻頭言「マテリアル・ワールドを遠く離れて」で、両者の「方法」のちがいに着目した分類を提示している。

文化は人が生み出す、とは当たり前のことだが、人がマテリアルを消費する、その受け入れ方・スタイルに、オタク的な方法(一般より深く対象の周辺情報を収集する)サブカル的な方法(一般的評価とは別の部分に価値を創出する)の区分があり、それらがどんな事象にでも適用可能であることが、我々の視界をややこしくする、現代サブカルチャーを語る際の困難な点である。

ばるぼら「マテリアル・ワールドを遠く離れて」、10ページ/強調は引用者)


ここにも述べられているように、この方法の違いは、オタクやサブカル以外の事象にもそのまま該当する。たとえば、学問研究や創作の現場では、「一般より深く対象の周辺情報を収集する」(深く掘り下げる)ことや「一般的評価とは別の部分に価値を創出する」(独自の視点から眺める)ことが日々実践されている。


愛好の対象と愛好の方法。この二つの条件を確認すればもってオタクとサブカルの定義がつくれそうなものだが、上記したようにこれではまだ足りない。ではこのほかにどのような条件があるのか?


思い当たるのは、当事者の自覚、自意識である。


⇒jarchive
 http://www.jarchive.org/
 ばるぼら氏のウェブサイト


◆3:誰が戦争を起こすのか?


「オタクVSサブカル」というからには、両者のあいだには反目があるのだろう。反目があるからには、双方のあいだには相手に譲れないものがあるのではないか。その譲れないものには、当事者の自己規定が反映しているに違いない。そういう関心で本特集を読んでゆくと、いくつかの文章が目にとまる。


赤田祐一『証言構成 『ポパイ』の時代 ある雑誌の奇妙な航海』(太田出版、2002/10)

赤田 「オタク対サブカル」って、雑誌の企画としてはわかるけど、それは岡田斗司夫が「捏造」した二項対立みたいな考え方だと思いますね。(中略)「オタク対サブカル」とかいっても、オタクの人しかこの本を買わないじゃないの? オタクの人のほうがこういう問題に関して、ちょっと意識過剰なんじゃないのかな。

赤田祐一「サブカルのルーツは古着族だった!?」、32ページ/強調は引用者)

両者は対立しているのかも知れないが、オタクが敵視しているサブカルが本当の意味でのサブカルなのだろうか?という疑問もある。筆者がいわゆる「サブカルの人」と言われて即座に思いつくのはみうらじゅんリリー・フランキーピエール瀧だが、彼らを敵視するオタクにはあんまりお目にかかったことがないし、『タモリ倶楽部』を批判するオタクも見たことがない。逆に彼らがオタクを批判することもほとんどなく、あったとしても軽い冗談の域を出ない。


だから、この特集で仮定されている「サブカル」とはおそらく本当の意味でのサブカルではなく、オタクが敵として認識しているサブカルというのも、いわゆる「サブカルの人」ではなく、快楽主義者のスタイルを装うことでオタクと差異化を図ろうとするオタク――サブカルオタではないだろうか?

更科修一郎「敵は遠くにありて想うもの――内ゲバしか知らない子供たち」、167ページ/強調は引用者)

要するにこれまでと違った新しい視点で色んな事象に突っ込みを入れる行為全般を「サブカル」と指すのだ。そして現在、オタクが敵視しているサブカル、つまり『オタクVSサブカル!』で扱われる”サブカル”は、無数にあるサブカルの中の一つを指す言葉であり、サブカル全体を指すものではないだろう。生身の女性という価値観に突っ込みをいれた「萌え」という文化もまた、実はサブカルの一つなのだから。

(屋根裏「悪趣味と前衛が支えたアングラ」、180ページ/強調は引用者)

もしも万が一「サブカル」なるものに実体があったとしても、「オタクVSサブカル」という対立軸で語られるサブカルとはおそらく何の関係もない。それは、単にオタクがオタクとしてのアイデンティティを保つために作り出した仮想敵に過ぎないからだ。

前島賢「僕をオタクにしてくれなかった岡田斗司夫へ――断絶と反復」、187ページ/強調は引用者)


岡田斗司夫『オタク学入門』(太田出版、1996/05; 新潮社OH!文庫、新潮社、2000/10)
これを読む限りでわかることは、「オタクVSサブカル」という図式は、オタク側からサブカル側を敵視する一方的な敵対関係だと考えられているということだ。仮に以上の指摘が妥当だとすると、「オタクVSサブカル」の戦場は、その図式を意識的/無意識的に受け入れているオタクの脳内にある、ということになる。


⇒OTAKING SPACEPORT
 http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/
 岡田斗司夫氏のウェブサイト


⇒Natural-Color-Paranoia
 http://d.hatena.ne.jp/cuteplus/
 更科修一郎氏のウェブログ


⇒屋根裏
 http://yaneurainga.hp.infoseek.co.jp/
 屋根裏氏のウェブログ


⇒前島日記
 http://d.hatena.ne.jp/cherry-3d/
 前島賢氏のウェブログ


◆4:男と女のあいだにはふかくて暗い河がある


野坂昭如『絶唱!野坂昭如 マリリン・モンロー・ノー・リターン』
この点について象徴的だと感じたのは、責任編集を努めたお二人、加野瀬未友氏(id:kanose)とばるぼら氏の対談「オタク×サブカル15年戦争」である。一応、加野瀬氏=オタク、ばるぼら氏=サブカル(余計なことを言えば、編集後記で編集長・郡淳一郎氏は、加野瀬氏を荒俣宏に、ばるぼら氏を澁澤龍彦に似ていると見立てている)という役割分担をしたうえで行われたこの対談全体が、種々のアイテムをめぐる両サイドの目線の違いを浮き上がらせる好企画だ。その中に、(男性からみた)「女友達」という存在について次のようなやりとりがある。

加野瀬 でも、男オタクの女フォルダには、彼女・家族・他人しかないんですよ(笑)。女友達という概念はありません!(笑)サブカルの人たちは、趣味で〔女友達と――八雲註〕つるんでるだけなんで、と当たり前の反応をすると、オタクは過剰反応するんですね、それができねぇんだよ!と。エロゲー一緒に楽しんでくれる女なんているかよ!と(笑)。


ばるぼら 自分に話しかけてくる女子は全員、自分に気があると思うってこと?
〔この問いは会話のつながりとしてやや唐突に感じられる――八雲註〕


加野瀬 そう。隣に座ったら俺に気がある(笑)。学校で隣に座った女子を好きになってしまう童貞の病です(笑)。


ばるぼら なるほど……。そのへんの価値観が違うんですよね。


加野瀬 ええ。女の子の友だちがいるって、お前ら、宇宙人?という。

加野瀬未友ばるぼら「オタク×サブカル15年戦争」、107‐108ページ)


サブカル側としては、女友達と趣味の話をするのはごくふつうのことにすぎない。オタク側からみると、これが腹立たしい、という次第。先の複数の引用から浮かび上がる、オタクの脳内における一方的な反目、という図式がここにも再現されている。もっともこの一方的な嫉妬の構造は、オタクVSサブカルというよりは、オタクVS女友達がいる男子でもありうるはずなのだけれど、オタク側からすると女友達のいるサブカル男子が問題なのだろう。逆にサブカル(あるいは非オタク)の側からみれば、女友達がいるかどうかだなンてことに、どうしてそんなにこだわるのかがわからない、てなものだろう。


もちろんこれは男性の場合の話であって、女性のオタク/サブカルとなるとまた幾分話はちがってくるはずだ。本特集では、吉田アミ氏、堀越英美氏、野中モモ氏の三人の女性が寄稿しているものの、堀越氏も指摘しているように女性のオタクというポジションの筆者はエントリーされていないため、その辺の事情は垣間見えてこない。そのような意味で、堀越英美氏による次のような問題提起は、本特集全体への批判としても興味深いものだ。

本稿ではオタクVSサブカル論争を文科系青年の自意識の問題として考えていきたい。ここでいう文科系青年とは、労働でも勉学でもスポーツでもなく、文化愛好を自らの男性性の根拠とする男性たちのことである。もちろん多くの文化愛好者はこのような心情とは無縁だろうが、少なくともオタク、またはサブカルであるという自意識のもとに他の文化トライブ(あるいは世代)を攻撃してみせる心性は男性性への固着に基づくものであるというのが本稿の論旨である。

堀越英美「家政婦はオタクVSサブカル論争に旧制高校生の亡霊を見た!」/強調は引用者)*1


しばしば部外者(非オタク/非サブカル)から見てこの対立が不毛に見えるのは、それがもっぱら当事者たちの「自意識の問題」だからだ。「お前さんの趣味のことなど知ったことか!」と思ったら、この対立はとたんにつまらないものになる*2


⇒ARTIFACT@ハテナ系
 http://d.hatena.ne.jp/kanose/
 加野瀬未友氏のウェブログ


Beltorchicca
 http://www14.big.or.jp/%7Eonmars/
 堀越英美氏のウェブログ


◆5:神は細部に宿る


しかしながらそれでも、自意識の問題はおもしろい。本特集に寄せられた論考で言えば、吉田アミ氏(id:amiyoshida)へのインタヴュー「一〇年前の世界と一〇年後の世界を発見する件について」乙木一史氏(id:otokinoki)の「1984――東京通勤圏でのサブカルとオタクの距離感」田口和裕氏(id:tagkaz)の「おれとサブカル」近藤正高氏(id:d-sakamata)の「カミガミの黄昏――〈一九九三年〉以前‐以後」*3などは、個人的な文化体験から自分の趣味嗜好に対する自意識のあり方が語られている。これらの言葉には、「このアイテムを愛好するオレ(が好きなオレ)」という他人を鼻白ませるばかりの自己顕示とは異なるものがある。


文化愛好者には、大きく二種類があるように思う。ひとつは、対象を愛好する者。もうひとつは、対象を愛好する自分を愛する者。貧しい経験によると、両者のちがいは、ご当人とほかならぬ愛好対象である(はずの)文物について語ることによって判明する。前者は、愛好する対象がいかにすばらしいか/すばらしくないかを縦横に語り、極端にいえばそこには語る自分はいない。関心はあくまでも対象だからだ。この点、後者はどうかといえば、あくまでも「オレ」「私」に主眼があるため、たとえば「澁澤が好きなオレ」についてはとうとうと語ることがあっても、さてその澁澤作品の内実や関連する物事についての議論は深まらない。前者が「私を通じて作品を論じる者」なら、後者は「作品をダシにして己を語る者」である。「文化愛好(者)」といった場合、後者はイカモノであろう。もちろんこれは戯画的な二分類であって、誰にも両方の側面があるだろうし、あるものについて語れば、望むと望まぬとにかかわらずその営為自体が結果的に自分語りを構成してしまうこともある。


話を戻そう。先の四つの文章はまぎれもなく自分語りの文章である。だから単純に書き手や話者への関心という点だけで考えてしまうと、おもしろさはその関心の度合いに比例してしまう。しかしこれを、1980年代、1990年代の日本文化にたいする四つの応接サンプルとして読めばこれほどおもしろい資料もない。言えばあたりまえのことに過ぎないが、個々の細かい具体的なアイテムを含めて、その時代を同時代的に生きた読み手にとっては、自分が見ていたはずの同時代が別の場所からどのように見えていたのかを教えられるからだ。要するに回想録を読むたのしみである。たとえば、

とにかく自分の判断基準がすべて『宝島』だった。世界を「『宝島』で取り上げる物」、「『宝島』では取り上げない物」で二分していた。音楽、映画、文学、演劇、美術、思想、すべて『宝島』経由で吸収していった。(中略)おのれの「サブカル」規範に当てはまらないものは何であれすべてヘイトの対象だった。

田口和裕「おれとサブカル」、154-155ページ)


だなンて言葉に出会えると、抽象的だった「サブカル」の一内実が随分具体的に垣間見えてうれしい。


もちろん本誌に掲載されたサンプルは、理想的に言えば同時代を生きる(生きた)すべての人のなかのごくわずかな例である。束の薄さに反して「1991‐2005ポップカルチャー全史」というステキに大風呂敷な副題をもつこの雑誌にしても、よもや本気でここに「全史」があると強弁するわけではない。むしろ、「採録回想100万件!」というあるべき理想のポップカルチャー回想録集(完全版)の見本誌のようなもの、そうした「全史」への夢想だと思って受け取るとすこぶる愉快である。というよりも仮に、細分化した諸文化・諸作品への偏愛のスタイルのちがいに「オタク」や「サブカル」の特質がある、と考えるならば、そうしたあくまでも具体的な文化・作品受容の経験をつぶさに語り/読むこと抜きにこれらのことを論じてみてもはじまらないことがよくわかる*4


巻末に収録されたオクダケンゴ氏による年表「平成大赦(仮)サブカルチャー年表」もまた、そうした回想を喚起する装置のようなものとして機能する。この年表は、オクダケンゴ氏がウェブサイト「radioAze」で掲載している同名年表を増補したもので、三段組み20ページを超えるヴォリュームに、1989年から2005年までの「サブカルチャー」関連事項を畳み込んだ労作である。この年表を読むうちに、行間にいくつものそこにない項目が見えてくるだろう。自分の知っていることだけを探してたのしむのももちろんよいけれど、ぜひ一行ずつ味わいながら読んでみたい年表だ。


⇒日日ノ日キ
 http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/
 吉田アミ氏のウェブログ


⇒さて次の企画は
 http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/
 乙木一史氏のウェブログ


⇒Rickdom
 http://www.rickdom.com/
 田口和裕氏のウェブログ


⇒Culture Vulture
 http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/
 近藤正高氏のウェブログ


⇒radioAze
 http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Keyboard/1496/
 オクダケンゴ氏のウェブサイト


◆6:もっと語りを!


さて、同誌を読みながら目にとまったことをいくつか拾ってきた。「オタクVSサブカル」ということについて、教えられることの多い特集であったが、なかでも私としては野中モモ氏(id:Tigerlily)による次の名言に遭遇したことは大きな収穫であった。野中氏はじつにあっけらかんと喝破する。

オタクVSサブカル!なんて言われると「弱者どうし仲良くしようよ〜」と逃げ出したくなる。弱者のひとりとして。要は小金をどう使うかって話でしょ?(政治社会状況を直視したり、本業の能力・収入・資産の話をするといたたまれなくなるから)。サブカル、オタク、その呼び名がどうあろうと、現時点で広くは受け入れられがたい/お金に結びつきにくい嗜好を育ててしまった人間は、好奇心と知識欲を持ち続け、マイノリティに優しく接し、そして自分が良いと判断できるものが消えていかないよう、それがさらに発展するよう体力と技能を磨いて尽力する、というのが正しいありかたではなかろうか。自分で書いていていい子ちゃんすぎて笑うけど。

野中モモ、「パンとサーカス、デザートにケーキ!——さて、そのころ女の子たちは……」、166ページ/強調は引用者)


そんなわけで、この特集を読みながら「あれがない」「これがない」「これはオタクではない」「これはサブカルだ」「つまんなくね?」などと不満をこぼしてみたり、小金の使い方をめぐる自意識の件でせめぎあっている暇があったら、「自分が良いと判断できるものが消えていかないよう」に尽力することが先決なンである。そのさいは、岸野雄一氏が語っているこんなアドヴァイスも念頭に置きたい。

岸野 (……)作者の意図と、こちら側〔受け手――八雲註〕の聴き取るものが、フィフティ・フィフティでいたいんだよね。こっちが上回っちゃ駄目だよ。それは現在のネットでのレビューにもつながっていて、それこそタグ打ちやエクセル作表くらいの技術力で成立する批評というか感想って、ほとんどが自らのスタンスを表明する為のものであって、批評によって作品を対象化しようというわけではないように見受けられる。わざわざ、つまらなかった、といった感想を書いてアップするというのは、その作品をダシにして、自分の立場を表明したいというだけでしょう。時には「私は興味ないのですが〜」なんてのもある。興味ないなら書くなよ。「私は興味ないのですが」で検索すると面白いよ。アイデンティファイの博覧会。

岸野雄一「前世紀末の聴取スタイルからの遷移と変遷」)


念のために言えば、もちろんそれは作品の批判を禁じることとはちがう。岸野氏の言葉は、「興味がないのですが」という免責のもとに勝手なことを述べたり(おそろしいことにこれはネット上だけでなく、たとえばゲーム雑誌の「レビュー」でも見られる常套句である)、他者を説得することのない単なる断定を垂れ流すことへの批判であろう。「つまらなかった」その理由を、(自分の思い込みや感情を優先するのではなく)作品の内容や構造に基づいて論じたならそれは立派な批評である。そしてその議論が妥当で説得的であるなら、当の批判の対象となった作品の作り手もまたその価値判断から教えられることがあるはずだ。


本誌は、テーマが、というよりテーマであるオタクやサブカルが対象とするポップカルチャーという題材が身近であるため、誌上で論じられていることをきっかけにさまざまなことを述べたくなる読者が多いにちがいない(かく申す私もそのような一人であるわけだが)。


仁義総研『訓録「仁義なき戦い」 人生で必要なことはすべて「仁義」に学んだ』(徳間書店、2004/12)
そのさい、とりわけオタク/サブカルになんらかのこだわりを持つ読者に僭越ながら一読者としてお願いしたいことは、もし同誌に触発されたら(たとえそれが不満や違和感だったとしても)、掲載された執筆者たちの文章の横に、自分のオタク/サブカル経験を並べてみるつもりで文章を書いてみていただきたいということだ(第三者にも読める場所に掲載していただければなおうれしい)。というのも読めばわかるように本誌は、オタクやサブカルを規定してみせるというよりは、(書籍の上では)あまり正面きって論じられることのないオタク/サブカルという組み合わせに光を当てなおし、それと同時に個々の読者の語りを誘発するために編まれた一冊だと思うのだ。そうした回想録がたくさん出揃ったら、本誌の続編として『オタクVSサブカル! 死闘篇』や『オタクVSサブカル! 頂上決戦』をつくると(『代理戦争』ではなくて)、そういうことでいかがでしょうか。*5


⇒Tigerlily Scribble
 http://d.hatena.ne.jp/Tigerlily/
 野中モモ氏のウェブログ


⇒KISHINO You-ichi Website
 http://www3.tky.3web.ne.jp/~gamakazz/kishino/
 岸野雄一氏のウェブサイト


⇒「興味ないのですが」を google で検索した結果
  http://www.google.co.jp/


青土社 > 『ユリイカ
 http://www.seidosha.co.jp/eureka/200508s/


【追記】2005年08月14日


堀越英美さんのお名前を誤記しておりました。訂正してお詫び申し上げます。
田口和裕さんのはてなidid:tagkaz)を文中に追記しました。
吉田アミさんの「日日ノ日キ」で応答を頂戴しました。
 「愛せなければ愛されない。」心に留めたい言葉です。


⇒日日ノ日キ > 2005/08/14
 http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20050814/

*1:この問題設定からただちに、だとするとバイセクシュアルな、あるいはホモセクシュアルなオタク/サブカルの場合はどうなのだろうか、との疑問がわいてくるものの、これは本特集の範囲内にはないもので別途考える必要がある。

*2:これは上記の堀越論考の論旨とは関係のない概観である(為念)。

*3:エピグラフの「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ。」(志村けん)にヤラれました。「神」「紙」「カミ」を見るつど、志村けんのあの声が脳裏に響く体にされてしまった。orz

*4:そのような意味では目下進行中のウェブログによる膨大な作品消費記録は後世、おもしろい資料になるのではなかろうか。

*5:それとは別に、現在の文化的な状況を見取る新たな地図とツールも欲しいところです(他力本願)。