ライフ・イズ・ミラクル(154min, 2004)
 ZIBOT JE CUDE


古来、色恋に騒動はつきもので実生活はもちろんのこと、創作の世界にもゴマンと例がある。


古くはホメロスの作といわれるイリアス(成立は前8世紀とも)などは、色恋とそれが引き起こす騒動の最も極端なかたちを描いていた。


同詩は二つの色恋と戦争が中心にある。第一に、主題となるトロイア戦争からしてトロイア王子パリスがスパルタ王妃ヘレネを見初めてトロイアへ連れ帰ったのが発端であった。王妃の奪還を企てたスパルタ王メネラオスは兄のミュケナイアガメムノンと共にギリシア軍を組織して大挙トロイアへ攻め込んだ。


ホメロス『イリアス』
イリアスはそのようにしてはじまった戦争も10年目の物語で、ギリシアの英雄アキレウスが機嫌を損ねている。それというのもアガメムノンが、アキレウスが愛でていた捕虜の娘を奪ったのが原因だ。怒ったアキレウスは戦いに出ることを拒み、この英雄の不在はギリシア軍に不利をもたらす*1


色恋が騒動に結びつくのは、惹かれあう二人が社会的地位や人種や家柄の違い、あるいは法や共同体のしきたりといった各種規範を容易に逸脱するからだろう。逆に眺めれば、恋する二人を待ち受ける困難から、彼/彼女(もちろん組み合わせはさまざまだ)が生きる社会を律するコードが浮き彫りになりもする。


エミール・クストリッツァ(Emir Kusturica, 1954- )監督の新作ライフ・イズ・ミラクルもまた、色恋と騒動が、つまり、恋人たちと環境の齟齬が作品の中心にある。二人が遭遇する困難が大きければ大きいほど、その困難を引き起こしている問題に観る者の意識は向かう。


この映画の恋人たちは、セルビア人ルカ(スラブコ・スティマチ)とムスリム人のサバーハ(ナターシャ・ソラック)。時は1992年、場所はボスニアの山間の村。問題は、民族紛争による戦争が本格化したボスニアでは、セルビア人ムスリム人は敵同士であることだ。もちろん恋する二人にはそんな民族の対立は関係ない。しかし状況はそれを許さない。私的な状況と大きな状況を絶妙に交差させる監督の手腕は見事で、観客は最後まで二人の行方に気をもむだろう。そうした非常時をしたたかに生きる人びと、どんなときも臨機応変に利益をあげようとする小狡い奴ら、仁義無きドロドロの政治劇といった人間たちの小さな悲喜劇もそこかしこに置かれて一人ひとりの小さな欲望も集まるととたんに得たいの知れないカオスになる、というクストリッツァ節は本作でも健在だ。そんなヒキコモゴモをそのまま音にしたような、ノースモーキング・オーケストラによる音楽も切ない陽気さとでも言いたくなるような楽曲でなくてはならない存在。


失恋によって絶望したロバというもうひとつの色恋と騒動もこの映画の重要な鍵を握っている。奇跡はどのように起きたのか。



なお、旧ユーゴスラヴィアの紛争については、千田善(ちだ・ぜん)氏の著作『なぜ戦争は終わらないのか——ユーゴ問題で民族・紛争・国際政治を考える』みすず書房、2002/11、amazon.co.jp)などが参考になる。


⇒『ライフ・イズ・ミラクル』オフィシャル・サイト
 http://www.gaga.ne.jp/lifeismiracle/


⇒emir kusturica & the No smoking orchestra(英語)
 http://www.emirkusturica-nosmoking.com/eng/index.html


⇒the universe of Emir Kusturica(英語/仏語)
 http://www.kustu.com/

*1:この筋立ては、2004年劇場公開されたウォルフガング・ペーターゼン監督作品『トロイ』(TROY)で観た人もあるかもしれない。ただしあの映画では「神々」が除外されていた。