ギュスターヴ・モロー展


一分のスキもなく完成された、という絵ではない。むしろ、どの作品もどこか途中で筆を擱いた、という余韻のようなものが残っている。ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826-1898)には、それでいて一度目にしたら忘れることのできない作品がいくつもある。


島根県立美術館兵庫県立美術館の巡回を経て、目下、東京渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開催中の展覧会ギュスターヴ・モロー——フランス国立ギュスターヴ・モロー美術館所蔵」展を参観しながら、あらためてそう感じた。この展覧会では、ギリシア神話や聖書を好んで題材に選んだモローの作品や習作が280点近く出品されている。



忘れがたさという点でいえば、「オイディプスとスフィンクス(OEdipe et le Sphinx)」(1864)が筆頭にあがるのではないだろうか。今回の展覧会では作品そのもの(メトロポリタン美術館所蔵、右図)ではなく、習作が何種類か出品されており、これはこれで貴重な機会である。


相手が誰かを知らずに父ライオスを殺し、テーバイの街に着いたオイディプス。その頃テーバイには旅人に謎をかけ、答えられぬとその相手を殺してしまうという怪物スフィンクスが出没していた。絵はオイディプスがスフィンクスと対峙する場面を描いたものだ。


構図もさることながら、いっそう印象深いのは見詰め合うオイディプスとスフィンクスの表情だ。これはいったい私たちが知る神話の、どの瞬間をとらえているのだろうか? 謎をかける前なのか、それともかけられた謎をオイディプスが考えているところなのか、あるいは、答えが告げられた後なのか。図録に引用されている Peter Cooke, Écrits sur l'art par Gustave Moreau (Fontfroide, Fata Morgana, 2002)は、次のような解釈を提示している。

画家が想定するのは、生の重大で厳粛な時に至り、永遠の謎に直面した人間である。/この謎はその恐ろしい爪で彼を押さえつけ、締め付ける。しかしこの誇り高く沈着な精神力あふれる旅人は、恐れることなく謎を見つめている。/それは地上のキマイラ、物質のように卑しく、かわいらしい女の顔で表されるとおり蠱惑的で、それでもなお理想を指し示す翼を持ってはいるが、引き裂き殺そうとする肉食の怪物の体をしている。

(図録、112ページ)


オイディプスはいま謎に直面している。たしかに構図からしてもこれが妥当な解釈なのだろう。



『ギリシア悲劇II ソポクレス』(ちくま文庫、筑摩書房、1986)
けれども私は長いあいだ、この絵はひょっとしたらオイディプスが正しい答えを述べた瞬間、もしくは、正解を述べるであろうことをスフィンクスが悟った瞬間を描いた絵なのではないかと思っていた。スフィンクスはあたかもオイディプスを不用意に傷つけまいとするかのように彼の身体の表面でも衣服に覆われた部分に爪を立てている。もしこれまでの旅人たちと同じように彼を殺すつもりで「さぁ、答えよ」と迫っているのなら、彼女の爪はすぐにでもオイディプスを殺せる位置にくいこんでいてもよかったのではないか。また、冷然と見つめ返すオイディプスの視線を受けるスフィンクスの視線は、どこか力なく、はっとなにかに気づいたようでもある。



しかし今回出品されている習作のひとつで、スフィンクスの顔を描いたものを観ると、彼女がうっすらと微笑んでいるのを見て取ることができる。この微笑みを見るかぎり、上記した私の思い込みはやはり妥当ではないと思われる。



男女(ここでの女性はスフィンクスだが)が特異な状況で見詰め合う作品といえば、ただちにもうひとつの作品「出現(L'Apparition)」(1876頃)が思い出される。


バプテスマのヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデと王妃ヘロデヤの違法な結婚を公然と断罪した廉で投獄される。父王ヘロデの誕生日の祝宴で踊りを披露したヘロデヤの娘サロメは、ヘロデから褒美を約束される。サロメは母ヘロデヤの入れ知恵で、「ヨハネの首を斬り盆に載せてほしい」と所望した。ヨハネは獄中で斬首され、サロメの望みどおりにその首が運ばれる……。



絵は、斬られたヨハネの首がサロメの前になんの支えもなく浮かんだ状態で対峙する様子を描いている(後年描き足された線画による別次元の層は、印刷複製物ではよく見えないものだけに、それをつぶさに観る好い機会でもある)。


この未完の作品では両者の顔(とくにサロメ)は描きこまれるにいたらず、その表情をはっきりと見て取ることはできないが、ここにもオイディプスとスフィンクスの交わりあう視線と同様に、両者の視線が切り結んでいる様子が見える。サロメはたじろぐこともなく母から託された憎悪をすでに首だけとなったヨハネに送っているようにも見える。果たしてサロメは、このなりゆきに満足しているのか、あるいはどのような感情を抱いているのか。本展覧会に出品されている一連の「サロメ」を描いた作品と見比べながら、気づけば聖書を新たな目で読み直そうとしている自分に気づかされる。



冒頭で、モローをつかまえて「一分のスキもなく完成された、という絵ではない」などと述べた。しかし実は以上にいくらか述べたように、このスキこそが、観る者を描かれた神話や聖書の世界へと往還させる手がかりになるのではないかと思う。絵の中で完成・完結してしまった物語を前にすると、そこから別の場所へ行こうという気は起きない。無闇なリアルさがそれを観る者の想像力を殺してしまうということがある。モローの作品は、想像力を殺さず、観る者をもともとの物語の方へと送り返す力を湛えている。もちろんそれは、ただ未完のようであるからではなく、画家がキャンバスの上に出現させた人間のしぐさと表情の妙が、どこか夢の出来事のようなあいまいさを残すように描かれているからだろう。


東京会場の会期は2005年10月23日まで。


⇒東急Bunkamura > ザ・ミュージアム
 http://www.bunkamura.co.jp/museum/event/moreau/index.html


⇒MUSÉE GUSTAVE-MOREAU(仏語)
 http://www.musee-moreau.fr/


⇒作品メモランダム > 2005/02/08 > クリステヴァ『斬首の光景』
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050208/p1
 「斬首」をテーマにした絵画をめぐって考察した書物『斬首の光景』について