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荒井晴彦『争議あり——脚本家荒井晴彦全映画論集』青土社、2005/10、amazon.co.jp


複数の人間の協働によってつくられる作品では、最終的に出来上がった作品から、個々の参加者の貢献度合いを推し量るのはむつかしい。


私はかつてゲームの開発に携わっていたのだが、ゲームもまた多くの場合、複数の人間の協働からつくられる。ときに出来上がった作品について、プロデューサーやディレクターがその代表者として語ることがあり、また、雑誌などもそうしたゲームをともするとプロデューサーやディレクターの個性に還元しがちなのだが、もちろん30人で創ったゲームを1人か2人に帰すのは無理がある(とはいえ、統括する役割を軽視してよいわけではない)。そうしたメディアに影響されてか、ゲームを論評するさいに「この細部へのこだわり、さすがXディレクターだよな!」などという声をきくことがあるけれど、そうした細部を発想しかたちを与えたのはXディレクターではない、ということはままあることだ。そして、ゲームを構成する諸要素を、いったい誰がそのようにつくりあげたのか、ということを誰かに帰すことはたいへん難しく、当事者たちでさえ、おぼつかない部分もあるくらいだ。ゲームの場合、プレイヤーからは不可視のプログラムなどはその最たるもので、コンピュータ上で複数の部分が相互に協働しながら稼動するプログラムを誰かに帰すためには、開発時に行っているようにプログラムの挙動を監視する特別なモニター環境が必要だ。


というゲームの事情からどこまで類推してよいかわからないけれど、映画もまた(多くの場合)複数のスタッフの協働でつくりあげられる作品で、作品を構成する要素を、どこまでどのスタッフに帰すのかということは、まじめに考え始めると相当めんどうな問題だ。


監督とは別の脚本家が存在する作品について、うかつに「この台詞まわし、X監督らしいね」などと言うのは論外としても、ある台詞が映えて見えるのが果たして一人言葉の力に拠ると言ったものか、発話する俳優の力量に拠ると言うべきか、ロケハンやカメラや音響のおかげと言うべきか、そもそも前後の映像の編集に預かってのことと言うのか、敢えて事柄を単純化するのでないかぎり、フィルムに定着された映像と音がいったい誰の創意によってそうなったのかを論じるのは思ったほど簡単なことでも単純なことでもない。ふたたび言えば、こう言ったからといって、映画を構想し、細部のよしあしを判断し、最終的なかたちを与える監督の役割を軽視するわけではない。創意と現実化と判断があいまって映画がつくられているとして、その最終的なかたちに責任をもつのが監督であることにはかわりはない。さりとて、すべてを監督の創意と才能でつくりあげているわけでもない(誰か映画の撮影現場で起こっていることをエスノメソドロジカルに記述している人はないだろうか? あるいは映画研究の専門家のあいだではこの問題はどのように扱われているのだろうか?)。



映画を構成する要素はどれを取り出しても興味深いものばかりだが、脚本には特有のおもしろさがあるように思う。なぜかといえば、脚本とは、最終的には映像に置き換えられる運命にある言葉であり、映画が出来上がるに従って変形され、(言葉は悪いが)無化してゆく作品だからだ。また、脚本を書くということは、言葉だけがなしうる創造を禁じ手にしたうえでなおかつ言葉で創造する営みでもある。


プロの現場ではどうかわからないが、シナリオ入門の講座を受講すると最初に教えられることの一つは、映像にならないものを脚本に書いてはならないということだ。たとえば形容詞はそのさいたるもので、「美しい花」などと書いてはいけない、と教えられる。「美しさ」自体は画面に映らないというのがその理由。そうした縛りのもとで、脚本を書くということを繰り返していくと、へんな言い方になるけれど、文章が唯物的になってゆくのを感じる。姿かたちのあるもの、そうした事物によって生じる出来事、そして音や文字として表現されうるかぎりの言葉だけが映像に変換できるとすれば、脚本は物と人と言動と出来事だけで構成されてゆくだろう。逆に、言語にしかできない表現とはたとえばこんな文章のこと。


ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつ向くと ポケットからお月様がころがり出て 俄雨にぬれたアスファルトの上をころころとどこまでもころがって行った お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった

稲垣足穂一千一秒物語』より)


もちろん解釈次第で映像にもできようが、自分をポケットに入れてあるくお月様だなんて事態は言葉であってこそのものだろう。シナリオ講座でこんな習作を書いたら、「あなたはシナリオより文学向きですね」と諭されるかもしれない。


前置きが長くなった。本書は脚本家荒井晴彦(あらい・はるひこ, 1947- )氏による映画論集で、古くは1970年代から現在まで荒井氏がさまざまな雑誌・媒体に発表した文章や対談を集成した一冊。巻末のフィルモグラフィまで含めて650ページに迫ろうかという大冊だが、収録された個々の文章は短く読みやすい。


本書のなによりの特徴は、その怨念の力とでも言おうか。ご本人も「あとがき」で「『愚痴と感傷』というタイトルを思いついたが却下された」だなンて書いているけれど、本書は、脚本という作物に対する不当な評価・評言への食い下がりの記録を集めた本といってよいかもしれない。この食い下がり、一見すると「愚痴」に見えるのだけれど、映画をどう観るか、どう論じるかということにじわじわと迫るものがある。どこからサンプルを引いてもよいのだが、映画評論家の山根貞男氏(と、プロデューサー伊藤亮爾氏)との議論の様子を見てみよう。

山根 今の話なんかを聞いていると、映画ってのはなるほど共同作業でできあがるもんだなあと思いますね。シナリオライターがいて、監督がいて、それにプロデューサーがいて、むろんカメラマンがいて……。


荒井 うん。今日、山根さんとはそこら辺も話したいなって思ってたんです。どうして、映画を監督だけで論じるんだろうと。


山根 映画は最終的に監督のものだと思っているからでしょうね。だからと言って、シナリオがどうでもいいわけじゃないけど。


荒井 「キネマ旬報」などで、ひとつの台詞をとり上げて”いかにもXX監督らしい台詞だ”とか読むと、ガクッとくる感じがありますね。それで何を論じているかというと、ストーリーだったりする。


山根 ただ、台詞がいいと言った時に、映画の場合は薬師丸ひろ子がどういう画面で喋ってるかということが入っちゃってる。その上で言ってると思うんです。だから僕は、評論の中で台詞を引用する時は、画面を引用しているんだと。


荒井 山根さんが、いつか「映画芸術」で神代さんの『快楽学園 禁じられた遊び』について、書いた文章がありまして、”シナリオを読んだけど、いい脚本なのか悪い脚本なのか判断できない”と書き出して、神代論をやるわけです。その段階では映画はまだ確かできていなくて、次回作風な論じ方だったと思うんですが、材料は僕のホンしかないのに、神代論なんですね。ま、神代さんがOK出したから印刷されたわけですから……いいです。愚痴です。


山根 あの映画は大変面白かった。だから、それがホンの良さであると、荒井さんは言いたいんでしょうが……僕の場合は、映画を見て言ってるんだから、神代さんがいいというしかないんじゃないですか。僕がシナリオについて何か言う時は、シナリオだけを読んでると思うんです。映画評はその次元と違う、画面の次元になっちゃう。


荒井 その手順をちゃんと踏んで欲しいと思いますね。

(「薬師丸ひろ子の存在感と作家の生理について」より)


その手順をちゃんと踏むことが存外難しい。


たとえばクラシック音楽を分析するさいに、演奏家の演奏はもちろんのことながら、その演奏を可能にしている譜面もまた同様に分析される。この譜面をこの演奏家はこのように解釈した、という風に。理想を言えば、映画の(ある種の)分析もまた、映画を成立させた条件である脚本とそこから創られた映像との相互比較を踏まえて論じていただきたい、ということになる。また、この分析を厳密に行うためには、初期状態の脚本と、撮影を通じて手を加えられた脚本との比較も重要なわけだが、必ずしもそのような脚本を参照できるわけではない、という条件もあって簡単なことではない。


いずれにしても、映画が作品として形をとったときに、その作品を成り立たせている要素の制作事情が作品だけからは見通せない、にもかかわらず作品を要素から論じるためにこのような困難が発生する。一見透明性が高そうに見える、つまり創り手が一人であるような小説や書物の場合でも、実際には編集者の助力が大きな力添えになっていることは少なくない。そしてできあがった書物から、作品に結実した諸力を腑分けすることはほとんど不可能だ(作り手が事細かに解説でもしない限りは)*1



荒井氏が時と場所と相手をかえながら執拗に繰り出す「愚痴」が本書の半面だとすれば、もう半面はそのように斬られる痛みを知る実作者から見た他人の映画についての議論で、気取りもなく歯に衣着せない言葉は、ときにすがすがしくさえある(批判されている当事者はそうもいくまいが)。実作者が作品を観る眼には、それだけで独得の着眼があっておもしろいものが多い。上記したように映画における脚本の役割と苦難を知る荒井氏が、自分がかかわらない映画についてどのように観るのか、これは読みどころでもあるだろう。


整った映画批評や理論だけを読んでいると、ついこうした「争議」だらけの現場のことを失念しそうになる。しかし、桂千穂笠原和夫足立正生といった脚本家や、ラング、ゴダール、フォンダ、カーペンター、(中略)、若松孝二黒沢清といった監督たちの争議の隣に本書を置くことで、映画書の書棚にあらたな争議が生じること請け合い。隣に置かれた監督の本や理論書と取っ組み合いのケンカが始まったらこれ幸いと、つぶさに眺めたい。違和が発するエネルギーも向けようで次なる創造につながるのであってみれば。


⇒日本映画データベース > 荒井晴彦
 http://www.jmdb.ne.jp/person/p0108070.htm


青土社
 http://www.seidosha.co.jp/


映画芸術
 http://www.k2.dion.ne.jp/~eigei/

*1:そういえば、村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』集英社新書集英社、2005/08、4087203050)は脚本家へのインタヴューを中心に書かれた本だったが、同書では村井氏がさまざまな映画における橋本氏の功績を腑分けしようと尽力していたことが思い出される。