★サルヴァトーレ・セッティス『ラオコーン——名声と様式』(芳賀京子+日向太郎訳、三元社、2006/08、ISBN:4883031551
 Salvatore Settis, LAOCOONTE: Fame e stile(Donzelli Editore, 1999)


美術史上もっともよく知られた彫刻作品のひとつ、ラオコーンがローマの葡萄畑から発見されたのは1506年はじめのこと。


二匹の大蛇にからみつかれ、苦悶の表情で格闘する男と二人の少年の姿をとらえたこの彫刻は、すぐにローマの人びとのあいだで評判になる。あれはウェルギリウス叙事詩アエネーイスプリニウス『博物誌』で言及しているラオコーンであると。



アエネーイスは、トロイアの英雄アエネーイスの運命を描いたラテン語による叙事詩。問題のラオコーンは、その第2歌にあらわれる(冒頭から233行までを参照)。


トロイアに攻め入り城壁を囲んだギリシア軍は、戦争の膠着状態を打開すべく、ウリクセス(オデュッセイア)の発案による「木馬」作戦を敢行する。名高い「トロイの木馬」である。ギリシア軍は、撤退したと見せかけて、内部に兵士をいれた巨大な木馬を残した。


トロイアの人びとは木馬を贈り物だと思いこみ、これを城内に引き入れようとする。神官ラオコーンは、それは詭計だと警鐘を鳴らす。ところが、海からあらわれた二匹の大蛇が、彼の二人の息子を食い殺そうとし、息子を救うべく武器を手に駆けつけたラオコーン自身、ついに大蛇に殺されてしまう。これを見た人びとは、ラオコーンが間違っていたと考え、ついに木馬を城内に引き入れてしまうのだった……。



彫像は、その大蛇に撒きつかれながら渾身の力で戦いながらも力尽きようとしているかのようなラオコーンと息子のまさに死にゆく姿をとらえている。といっても、この像が表わすものについては、ヴィンケルマンとレッシングのあいだに解釈をめぐる論争をみてみると、なるほどこの彫像が固定している瞬間に、ラオコーンがどのような状態にあるのか、簡単に断定するのは難しく思われてくる。


この彫像は、いつ誰によって作られたのか。これはオリジナルの作品なのか、はたまた先行作品のコピーなのか。本書『ラオコーン——名声と様式』は、このラオコーン像をめぐる謎の核心に迫ろうとする研究書だ。


著者サルヴァトーレ・セッティスは、「専門家たちの言葉の山に埋もれ、見えなくなりそうに思われ(中略)仮説や研究手法が入り乱れる十字路になってしまった」(p.13)ラオコーン研究の現状を踏まえて、利用しうる限りの史料と先行研究を検討にかけ、吟味を加えていく。


副題におかれた「名声と様式(Fama e stile)」とは、その主要な手がかりを示している。つまり、作品の外見や他の作品との様式上の比較からラオコーンの制作年代を推定するとともに、文字資料を軽視する風潮(というものがあるということもまた素人としては驚くべきことだが)に抗して、さまざまな史料に残されたラオコーンにまつわる言葉(名声)をも疎かにせず、両者を検討するということだ。



本書の読者は、ひとつの彫像をめぐる事実に迫るために、膨大な知識と史料を総動員する著者の思考に接して驚きを禁じえないだろう。たしかにラオコーンは、ある時代のある場所である人物によって作られた彫像である。だが、一度そうした文脈が失われ、時間の流れのなかにもやいを解かれてしまったら、それをふたたび元の文脈におきもどすことは容易ではない。そうした状況のなか、推測や仮説が渦巻きぶつかりあう十字路で、いったいどうしたらラオコーンがつくられたその場面について、より確かなことを知りうるだろうか、という次第。


もとより私にはセッティスが提示する解答(p.105)の妥当性を判断する資格はない。けれども、本書に示された包括的な検討とそこから導き出された主張は、ラオコーン像について考えるうえで見過ごせないものだと思う。また、たとえ著者と異なる見解をとるにしても、本書は資料集としての性格も備えており役立つ。


なお、本書に併録されたソーニャ・マッフェーイ「一五〇〇年代の文献におけるラオコーンの反響」には、ラオコーン像をめぐるさまざまな文書、書簡、詩、ガイド、論文からの抜粋が集められている。また、ルドヴィーコ・レバウド「ラオコーンの修復」には、修復の経緯についての考察が収められており、いずれの論文も、セッティスの議論の理解に資するものだ。本書のためにヴァチカン博物館で撮りおろされたラオコーン像のカラー口絵写真のほか、多数の関連図版も収録されている。


⇒三元社
 http://www.sangensha.co.jp/


⇒Donzelli > LAOCOONTE(イタリア語)
 http://www.donzelli.it/Scheda.asp?Cod=587
 原書の版元Donzelliの同書紹介ページ。


⇒SCUOLA NORMALE SUPERIORE > Salvatore Settis(イタリア語)
 http://www.sns.it/it/lettere/menunews/docenti/salvatoresettis/
 セッティスが校長を務めるピサ高等師範学校の紹介ページ。


⇒Perseus Digital Library > Vergilius, Aeneid(ラテン語・英訳)
 http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?doc=Perseus%3Atext%3A1999.02.0055&layout=&query=toc&loc=1.1
 『アネネーイス』の原典と英訳テキスト。


⇒The Latin Library > Plinivs, NATURALIS HISTORIA(ラテン語
 http://www.thelatinlibrary.com/pliny1.html
 『博物誌』の原典テキスト(第V巻まで)。


Wikipedia > ラオコオン論争(日本語)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AA%E3%82%B3%E3%82%AA%E3%83%B3%E8%AB%96%E4%BA%89
 ラオコーンをめぐるヴィンケルマンとレッシングの論争の解説。


⇒Projekt Gutenberg-DE > Lessing, Laokoon(ドイツ語)
 http://gutenberg.spiegel.de/lessing/laokoon/laokoon.htm
 レッシング『ラオコオン』の原文。岩波文庫版は2006年12月に重版予定とのこと。


⇒Projekt Gutenberg-DE > Winckelmann, Gedanken über die Nachahmung der griechischen Werke in der Malerei und Bildhauerkunst(ドイツ語)
 http://gutenberg.spiegel.de/winckelm/nachahm/nachahm.htm
 ヴィンケルマン『絵画と彫刻におけるギリシア芸術模倣論』の原文。