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男と男のいる文学

ベンチに腰掛けて読書をしていたら、だれかが私の肩をたたく。なんだろうと思って見ると、先ほどから隣に座っていた見知らぬ男性。「ちょっといいですか?」

それは、くっきりとした目鼻立ちをした青年で、灰色と碧色がまざりあったようなちょっと印象的な眼をしていた。「こんにちは」 いま起きようとしている事態に少し戸惑いながら挨拶をした。


「あの、それはギリシア語ではありませんか?」と青年が尋ねる。私はちょうど、ひざの上にのせたトランクを机がわりに、書物と辞書とノートを広げていた。書物は、青年が言うように(古典)ギリシア語で書かれたものだった。「そうです」と言って、本を青年のほうへ差し出す。

「やっぱり!」 その顔がぱっと明るくなって、青年は身を乗り出してくる。彼とともに空気が動いて、やわらかな、香をたきしめたようなほのかな香りがする。「ぼくはギリシア人なんですよ」と言いながら、よく動く大きな眼で書物のページに眼を落とす。「Δια τι αι μεγαλαι υπερβολαι……」とてもなめらかに、彼はギリシア語を音読した。うれしそうに、指で行を追いながらすらすらと音読していく。変な話だけれど、私はギリシアの人が古典ギリシア語を音読する姿をはじめて目の当たりにした(しかも東京で)。

まるで歌うようにギリシア語を読んでいる青年の横顔を見ながら、私はなぜか先日読み終えたハイメ・マンリケの『優男たち——アレナス、ロルカ、プイグ、そして私』(太田晋訳、青土社、2006/12、ISBN:4791763165〔Jaime Manrique, Maricones Eminentes: Arenas, Lorca, Puig, Y Yo(Eminent Maricones: Arenas, Lorca, Puig, and Me), 1999, ISBN:8477387974〕のことを思い出していた。




それは、コロンビア生まれの作家ハイメ・マンリケ(Jaime Manrique, 1949- )が、マヌエル・プイグ(1932‐1990)、レイナルド・アレナス(1943‐1990)、フェデリコ・ガルシア・ロルカ(1896-1936)、そしてハイメ・マンリケ自身について綴った評伝的な文章からなる書物だ。

ほかに適当な言葉を思いつかないまま「評伝」と書いてはみたけれど、マンリケは、プイグ、アレナス、ロルカの生についての包括的な記録を再構成してみせようというのではない。彼らがホモセクシュアルであることによって、世界とのあいだで、どのような摩擦を引き受け、折衝し、折り合いをつけたのか、その作品にはなにがうつしだされているのか。そうしたことを、敬愛の念がこもったやさしい、けれども必要以上にべたつかず、ときに対象をつきはなした率直な筆で描いた肖像画(ポルトレ)集である。

ファシスト政権下で銃殺の憂き目にあうロルカ、自ら死を選んだアレナス、客死したプイグ。いずれの生にしても、もし人がその気になれば、苦難に満ちたつらい敗者の生涯として描くこともできるだろう。けれども、マンリケの文章は、どこかあっけらかんとしていて、むしろ明るい。

それはたぶん、「われらの世紀における二つの巨悪、すなわち非妥協的なマルクス・レーニン主義と全体主義的ファシズム」という社会背景のなかで、彼らが「第一級の芸術家であり至上の変革者であることに加えて、作品において周縁への抑圧について語った」こと、ずぶとい「肝っ玉(conjones)」(以上括弧内の言葉はすべて邦訳書256ページより)をもっていたこと、彼らの生と作品からマンリケ自身が大きな力、自らのセクシュアリティと向き合い、生を肯定する強い力を得たことと無関係ではないと思う。そしてそのことを示すためにも、この書物の冒頭と末尾に「脚——幼年期と思春期の回想」「もうひとりのハイメ・マンリケ——死せる魂」という、マンリケ自らについての文章が置かれているのだろう。


たとえこれらの「優男たち」についてなにひとつ知らなかったとしても、「ある文学的な、熱帯の、ボーイズ・ラヴの物語」(帯より)としてたのしむことだってできるこの書物(と示唆に満ちた訳者あとがき)に触れて、ハイメ・マンリケという人には——太田晋氏による訳文の文体もあいまって——私が「萌える要素」(241ページ)が満載だということを教えられ、さっそく書店に彼の作品を注文したのであった。この邦訳版は、三嶋典東氏のイラストを白井敬尚形成事務所がシックでゴージャスにしたてた装幀もすてきだ。編集は郡淳一郎氏。



美しいギリシア人の青年は、しばらく熱心に、ほとんどむさぼるように文字を追っていたページから、不意に顔をあげて私のほうを見た。

「どうしてギリシア語を学ぼうと思ったのですか?」
「古代ギリシアの書物を、書かれた言葉で読みたいと思っていたからです」
「私もホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』をはじめ、学校でいろいろ読みました。ギリシア語はいかがですか?」
「とても、とても、とても難しい言葉です。私にとってはラテン語やヘブライ語だって十二分に難しい言葉ですが、古典ギリシア語ときたらその比ではありません!」

「そうでしょう」としたり顔で微笑んでから、青年は「王」を意味するギリシア語の言葉、βασιλευςの曲用形をすらすらと諳んじてみせた(ギリシア語の名詞では、同一の単語が数と格の違いによって10通り以上に曲用されるのだ)。


そして彼は、いたずらの相談をするように片目をつぶり、「だからギリシア人は語学が得意です。だってほら、あなたもおっしゃったようにギリシア語に比べたらどんな言葉だって簡単に見えるから。そうそう、僕はまだ日本に来てから三ヶ月なんですよ」と、それは流暢な日本語で告げてから、「いつかギリシアにも遊びに来てください!」とさわやかに言い残して去っていった。

青年が残した甘やかな香りと、手元の書物とともに、私がしばらくその場でぽかんとしていたことは申し上げるまでもない。そして、思った。もし私がアテネのベンチで、『源氏物語』に向かっているギリシアの青年を見かけたら、きっと似たようなことをするにちがいない、と。


⇒青土社
 http://www.seidosha.co.jp/index.php


⇒glbtq > Jaime Manrique(英語)
 http://www.glbtq.com/literature/manrique_j.html


⇒Tokyo Illustrators Society > 三嶋典東
 http://www.tis-home.com/cgi-bin/artist.cgi?id=139