知りたがるにもほどがある



「人間の精神は、体が触発される変容の観念を通してでなければ、
人間の体そのものを認識しないし、また体が実在することを知らない」
――スピノザ『エチカ』第2部命題19(佐藤一郎訳)



ひとは、自分の身体がなにをなすのかを知らない。というよりもむしろ、生まれ落ちてから死ぬまでのあいだ、毎日毎時、自らの体と自分をとりまく環境とのかかわりあいを通じて、それこそ「自分の体はこんなふうにもなるのだ」ということを経験しながら確認しつづけているのだといってもよいだろう。


病気はそのわかりやすい例だ。たとえば、自分の意思とは関係なく身体が高熱を発したり、自分の体が肺結核を病んだり、ある日突然顔の右半分が動かなくなったりといった事態に遭遇すると、自分の体がそんなふうにもなってしまうのかという素直な驚きを感じる。そんなときには、自分の身体のなかでいった全体なにが起きているのか、まったく知らないということに改めて愕然としたりもする。



あるいはもっと積極的に、「どこまで息をせずにがまんできるか?」と思ってお風呂に沈んでがんばってみたり、「ひとは何時間続けて眠れるか?」とばかりに眠りづつけてみたり、「ひとはチョコレートのみにて何日生きられるか」と三度の食事をチョコレートだけで過ごしてみたり、毎晩のようにアルコール摂取量の限界に挑戦してみたりと、積極的に実験をしてみることがあるかもしれない(要するに『ギネスブック』とはそうした果敢なチャレンジの記録でもあるわけだが)。


ある場所(高いところや狭いところなど)と自分の相性、ある食べ物や飲み物と自分の相性、ある気候と自分の相性、ある行為と自分の相性、あるなにかと自分の相性というように視野を転じていくと、日々自らの身体と世界とのあいだでどのような触発が生じるかという小さな実験をしているように思えてこないだろうか。しかし、いったいひとの身体は、なにをなすことができるのだろうか。


今から10年以上前のことだが、『人間の許容限界ハンドブック』(朝倉書店)という本に遭遇したことがある。うろ覚えだが、この本には人間のさまざまな生理的な側面における許容の限界が、当時わかっていた範囲で記されていた。例えば、人間はどのくらい眠らないで大丈夫か、寿命の限度はどのくらいか、温度(高温・低温)や放射線への耐性はどのくらいあるのか、などといったことである。


その書物を読みながら思ったことの一つは、いったい誰がどのような気持ち(そう、動機といった説明よりはむしろ気持ちである)からそうした事実を見出したのかということだった。「人間は生まれながらにして知ることを欲する動物である」とは、大アリストテレスの言うところだけれど、そうはいっても人間の身体を使っての実験には限度があるのではないか*1



トマス・ド・クインシーの『阿片常用者の告白(Confessions of an English Opium-Eater)』(野島秀勝訳、岩波文庫赤267-1、岩波書店、2007/02、ISBN:4003226712〔原書は1822年〕)には、こうした問いに対する一つのヒントを与えてくれるくだりがある。この本の中で、ド・クインシーは概要こんなふうに述べていた。


わたしは自分の体で実験したいと思う人びとと同じように、自分の体で阿片の実験を行っているのだ、と*2


「そりゃあ先生、中毒の正当化なんでは?」と思わず突っ込みたくなる気持ちを抑えて読むと、なるほどド・クインシーは、その書物の中で、阿片の常用が人体にもたらす快楽と苦痛をともに被験者であると同時に観察者の目で報告しているようだ(加えて、なぜ自分が阿片常用者となったのかということを読者に伝えるために自叙伝めいたことまで書いてあるおかしな本なのである)。


たしかに医学史や薬学史、あるいは食物史や科学史などを繙くと、こうした実験に果敢に取り組んだ人びとの姿が見えてくる。例えば、フグを最初に食べた者や毒とも食用になるともつかないキノコに果敢にも挑戦した人びとについての話などについてどこかで読んだことがある人もあるだろう。



先ごろこうしたことを知るうえでうってつけの書物が邦訳された。レスリー・デンディとメル・ボーリングの『自分の体で実験したい――命がけの科学者列伝(Guinea Pig Scientists: Bold Self-Experimenters in Science and Medicine)』(梶尾あゆみ訳、紀伊國屋書店、2007/02、ISBN:9784314010214〔原書は2005年〕)である。


同書はまさに書名のとおり、自らの体を使って危険な実験を行った人びとの挑戦を描いた書物である。ページを開くと、人間は何度の高温まで耐えられるのかを知りたい一心で、自ら高温に熱した部屋に入り、体温を測りながらあぶり焼き寸前の限界まで耐えた男たちの話からはじまる。


つぎつぎとあらわれるチャレンジャーたちの恐れを知らぬ実験家魂に驚倒し、気がつけばついには全10章をあれよという間に読み終えてしまう、まことに――こう言ったらなにやら不謹慎なようでもあるけれど――おもしろい一冊だ(右書影にも見えるC.B.モーダンのイラストが、本文にも添えられておりとてもいい味を出している)。

第1章 あぶり焼きになった英国紳士たち
第2章 袋も骨も筒も飲みこんだ男
第3章 笑うガスの悲しい物語
第4章 死に至る病に名を残した男
第5章 世界中で蚊を退治させた男たち
第6章 青い死の光が輝いた夜
第7章 危険な空気を吸いつづけた親子
第8章 心臓のなかに入りこんだ男
第9章 地上最速の男
第10章 ひとりきりで洞窟にこもった女


それぞれの実験には、実験者が自らを実験台とするに至ったさまざまな事情や理由――たとえば、人びとの安全と健康に役立ちたい――が書かれている。こうした列伝を読んでいると、子供のころに読んだ子供向けのパスツールキュリー夫人の偉人伝が思い出されてくる。そうした子供向けの本では、かれらの仕事の意義と価値をわかりやすいお話にしたてていた。


しかしこの書物を通じて、あらためてキュリー夫人(第6章)を含む実験家たちの動機や意志についての説明に触れると、もちろんそれはそれとして納得もできるのだけれど、同時にそうした合理的な理由だけではわりきれない過剰ななにかを感じるのである。それはいったいなんなのか。「知りたい気持ち」と言えばそれまでかもしれないが、そこにはそれこそ人体が潜在させている不可解なもの(人の身体はなにをなすのか)があらわれているようにも思えてくる。レトリックを弄せば、不合理な情熱や意志に支えられて貫徹された合理とでもいおうか。


巻末には、本書で主題的に扱えなかった「自分の体を使う実験」の年表までついており、本書を一読した暁には医学史や科学史において数行ですまされる数々の実験の裏側を想像せずにはいられなくなること請け合いである。


ここに紹介された10の偉業に触れて「知りたいにもほどがある!」と半ば呆れながら、「それにしても、現在、人間の体の限界はどこまでわかっているのだろうか?」とまたぞろ疑問が萌してくるのだからしょうがない(ちなみに本書では、ご丁寧にも各章末ごとに、その実験の後日談が記されている)。



そう思って書店のデータベースを調べていたら、こんな書物にでくわした。『人間の許容限界事典』(朝倉書店、2005/10、ISBN:9784254101911の千ページを越える容積には、さて、いったいどれほどの「限界」が示されているのだろうか。読むのがたのしみである。


⇒朝倉書店 > 『人間の許容限界事典』
 http://www.asakura.co.jp/books/isbn/4-254-10191-0/

*1:と書きながら連想するのは、被験者がそれと意図せずに、場合によっては強制的に施される人体実験だが、それについては別の機会に譲る。

*2:当該書物が行方不明という情けない事情から、正確な引用ならぬうろ覚えの概要であることをお詫びしたい。