メールマガジン「αシノドス」に連載「思想誌空間5――蘭学における「思想」の語」を寄稿しました。


軽い気持ちで、「思想という言葉は、いつ頃からいまのような用法になったのかしら」と詮索を始めたのが運の尽き。いずれどこかの研究者がまとめてくれているだろうと思って文献を読みあさっているのだけれど、いまのところ運悪くこの語について掘り下げたものに出会えていない。


目下のところは、明治初期に欧州の心理学を移入するさいに、thoughtの訳語として「思想」という漢語が充てられたのではないかという見立て(調べが進むなかで覆る可能性もある)。では、それ以前はどうしていたのか。ここで問題はいくつかに分岐する。連載の原稿とはすこし角度を変えて、今後の探索の方向についてアイアディアを述べておこう。


一つは、もし「思想」が明治期に新たな意味を与えられたものだとしたら、それ以前の日本語の文脈では「思想」に該当する言葉をどうしていたのかという疑問。これを知るためには、そのつもりでいわゆる「日本思想史」上伝存する文献にあたってみるほかはない。これはどちらかというと、言葉の表現上の問題。今回は、その一環として蘭学における「思想」の語を少し追跡している。このあとしばらく蘭学、キリシタン書、漢学といった明治期以前の言語交流、翻訳が生じた場面に注目してみることで、「思想」に類する語が日本語の文脈でどう対処されてきたかをたどってみるつもり。また、さまざまな思想家たちの文章において、思想に類する言葉がどのように用いられていたのかも瞥見してみたい。


もう一つは、thoughtとは、「考え」といった広義の意味のほかに当時の欧州の心理学において人間精神の働きの一要素に与えられた名前だったわけだが(連載1〜4回を参照)、この概念に相当するような精神作用の捉え方、あるいはこれとは異なる精神作用の捉え方として、日本ではどのような把握がなされていたのかという疑問がある。これはどちらかというと言葉(概念)の意味内容の問題だ。


このことを確認するには、たぶん人間の心身のありようをさまざまに論じて倦むことのない仏教の議論や、インド哲学における言語や論理の扱い方などを見てゆくことになるだろう。もちろん、そもそも明治期に輸入されたthought(心理学における「思想」)の西欧における来歴も一度はたどりなおしてみる必要がある(のだが、この道はそのまま西欧思想史の流れ〔とそれに大きく寄与したイスラーム思想〕を遡って、少なくとも人間の精神作用をあれこれ分析してみせたことがわかっているプラトンアリストテレス、あるいはソクラテス以前くらいまではたどることになりそうだ)。


というわけで、結局のところ「思想」の意味を求めて、思想史世界一周双六の旅に出るはめに。先哲の研究を活用して、ふたたび出発点の明治期日本まで戻ってきたい。そこからようやく、明治・大正・昭和と、本題の思想誌を追跡するという次第。


その「αシノドス」の8月25日配信分は、10号と11号の合併号で、いつも以上の大ヴォリュームになっています。

【1】巻頭コラム / 芹沢一也
 「丸山眞男と「俗流」日本人論」


【2】座談会 / 片山杜秀芹沢一也荻上チキ・ほか
 「中今・無・無責任 前編」


【3】レポート / 藤本拓自
 「熊野大学レポート2008」


【4】連載 / 山本貴光
 「思想誌空間5:蘭学における「思想」の語」


★11号のトピックス


【5】特別対談 / 上野千鶴子×本田由紀
 「次世代のためにすべきことは何か
   ――超能力主義、家庭教育、そして若者をキーワードに」


【6】寄稿 / 峰なゆか
 「労働環境としてのAV業界とその不可視なリスク」


【7】寄稿 / 小山エミ
 「DVシェルター廃絶論――ハウジング・ファーストからの挑戦」


【8】編集後記&次号予告


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