思想の条件――福澤諭吉の場合

しばらくお休みをいただいていましたが、芹沢一也さんが編集するメールマガジン「αシノドス」に連載中の「思想誌空間」の第10回目を寄稿しました。


「思想」という言葉は、人間の精神の働きを示す重要な概念であるように見えながら、現在では意味がよくわからなくなっているような気がします。そこで、そもそも日本語のなかでこの言葉はどんなふうに使われるようになってきたのかということを調べてみようというのが、この連載の発端でした。


目下、福澤諭吉におけるこの言葉の用法を検討中です。


なぜ福澤諭吉かというと、思想史家の三枝博音が、日本語で思想という言葉を現在のように使い始めたのは、福澤だと指摘しているのに遭遇したからでした(連載第7回)。


そこで、実際に福澤の著作をそのつもりで読んで総覧してゆくと、なにが見えてくるかということで、ここ3回を使って検討を加えた次第です。



面白いのは、福澤諭吉の長い文筆キャリアの中で、「思想」という言葉は最初から彼の語彙にあったわけではなくて、40歳のときの著作『文明論之概略』(明治8年=1875年)から使い始めているようなのです。


或る人が、その人にとって新しい語彙をどのように獲得して、使いこなすようになっていくのかということ自体、とても興味ある問題です。福澤の場合、どのようにしてこの語を手にしたのかというところまでは詰められていませんが、『文明論之概略』に先立つ中村正直によるスマイルズの『西国立志編』(明治4年=1871年)やJ.S.ミルの『自由之理』(明治5年=1872年)に、think, thoughtの訳語として「思想」という語が見えることに手がかりがあるように思います。


また、福澤が「思想」という言葉を手にする以前は、どんなふうにして「思想」に該当しそうな事柄を表現していたのか、ということも不十分ながら検討を加えてみました。


今回の第10回で、一応福澤についての検討は終わります。次回は、少し角度を変えて、いまいちど広い視野から「思想」について考えてみる予定です。ここまでの10回分のタイトルは以下の通りです。

01.思想誌という不思議なメディア
02.「思想」を求めて
03.英語と漢語のはざまで
04.諸学の交差点で
05.蘭学における「思想」の語
06.英・華・日、翻訳の三体問題
07.思想の条件/三枝博音の場合
08.思想の条件/福澤諭吉の場合(1)
09.思想の条件/福澤諭吉の場合(2)
10.思想の条件/福澤諭吉の場合(3)


と、こんなわけのわからない原稿を連載させてくださる「αシノドス」と芹沢編集長に感謝します。2008年春に始まった同メールマガジンは、順調に継続して、今回配信分で28号目となります。相変わらず、次が来るまでに読み切るのが大変なほどのヴォリュームです。最新号の目次は以下の通り。

【1】編集部より / 芹沢一也


【2】シノドス・セミナー / 中野剛志
   「資本主義は生き残ることができるのか?(後篇)」


【3】連載コラム / 飯田泰之
   「経済学思考の練習問題特別篇:経済学者・飯田泰之への質問」


【4】特別寄稿 / 西田亮介
   「社会起業は<社会>を変えることができるか」


【5】特別レポート / M.K(特別養護老人ホーム・介護職員)
   「介護の現場から何が見えるか2:高齢者介護、福祉の最前線で
      何が起こっているか、またそこから見えるもの」


【6】連載エッセイ / 山本貴光
   「思想誌空間10:思想の条件 福澤諭吉の場合(3)」


【7】情報通信 / 河村信
   「河村書店:人文・社会(学)系ニュース―日々編集中」


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シノドス > αシノドス
 http://kazuyaserizawa.com/mm/index.htm


⇒未来をひらく福澤諭吉
 http://www.fukuzawa2009.jp/
 今年3月まで上野で開催されていた展覧会は、目下、福岡市美術館で開催中。