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twitter――脳内シャッフル革命/ポスト談話室滝沢

memo twitter


twitterを本格的に使い始めてからというもの、それまで利用していたネット上の各種サーヴィス(ウェブサイト、ブログ、mixiなど)は、それまで以上に使わなくなりつつあります。1回140文字以内のつぶやきで、ぼそぼそと思いつきを述べることの、いったいどこが楽しいのかとは、しばし訊かれることでありますが、私にとっては主に二つの効用があります。


と、その前にtwitterの用語を二つほど解説しておく必要があります。


タイムライン(TL)――といっても、マイクル・クライトンの小説ではありません。twitterでは、既存のサーヴィスで言うところの自分のページ(mixiなら、自分のIDでログインしたときに表示される自分専用のページ)に該当するページには、「タイムライン」と呼ばれるものが表示されます。twitterでは、各ユーザーは、1回140文字(1バイト文字、2バイト文字を問わず140文字)以内の文字列を投稿できるのですが、画面には、自分の投稿や他の人の投稿が時系列に上から下に向かって表示されます。これをタイムラインと呼ぶようです。


タイムラインの特徴は、画面の上から下に向かって流れている川のように、新しいつぶやきが投稿されるつど、古いものがどんどん下のほうへ流れてゆくことです。ですから、単位時間当たりの投稿数が多いほど、この「流れ」は速くなります。画面の下のほうへ流れていってしまった投稿も、たぐって読むことができます。


それはさておき、それじゃあ自分のタイムラインには、全twitterユーザーのつぶやきが表示されるのかというとそうではありません。そこでもう一つ説明しておかねばならないのが、「フォロー」という仕組みです。


フォロー――twitterにログインした際、自分のタイムラインに表示されるのは、基本的には自分が選んだユーザーだけです(応用的には、最近正式導入された仕組みによって、選んでいない相手のつぶやきも表示されるようになりましたが、それはさておき)。選ぶといっても、どうやって選ぶのか。twitterでは、検索機能が用意されているので、そこで関心のある言葉などを検索すると、その言葉を含むつぶやきを投稿している人のリストがタイムラインに表示されます。そこで、「この人のつぶやきは追いかけてみたいな」と思ったら、「フォローする」というコマンドを実行します(ボタンを1クリックするだけ)。すると、以後、その人が何かつぶやくつど、その内容が、自分のタイムラインに表示されるようになるという次第です。逆に言えば、自分のつぶやきは、自分をフォローしている人たちのタイムラインに配信されるのであります。ユーザーによっては、何千、何万というフォロワーがいるので、下手をすると売れない雑誌の広告や記事よりも、よほど強力な情報伝達ツールとして(も)機能していると言えるでしょう。


さて、フォローをしたりされたりする際、twitterでは、mixiのようにつながることを承認したりする必要はないので、気になるウェブサイトをブックマークするようなノリで気軽にフォローできるのが特徴です。そんなわけで、どんどん気になるつぶやき主をフォローしてゆくと、やがて自分のタイムラインは、前後に脈絡があったりなかったりするつぶやきで埋め尽くされてゆきます。


そこでようやくそのどこが楽しいのかという話です。


あくまでも私の場合ですが、もっぱら二つあります。


★その1――言葉が向こうから飛んでくる(脳内シャッフル革命)


目下、私は900人くらいの人をフォローしています。つまり、その人たちが何かつぶやく(投稿する)たび、その内容が自分のタイムラインに表示されるわけです。


このくらいフォローすると、もはや全員のつぶやきを全部読むことは不可能です(いえ、可能かもしれませんが、そのためには何時間もの時間を要するでしょう)。ですから、基本的には仕事の合間にラジオやテレビをつけるように(実際にはそういう習慣がなくなって久しいですが)、タイムラインをちらりと眺めます。


すると、或る人はいましがた食べたもののことをつぶやき、また別の人は仕事が終わって飲みに行くところであることを実況したり、最近面白かった小説のことを語り、また或る人は脳科学の話をしています。要するにてんで好き勝手なことをつぶやいているわけですから、そうしたつぶやきが時系列という極めて無味乾燥な仕組みで整理されているタイムラインは、そのまま見るとただの混沌です(そうして並べられた発言が、偶然やりとりをしているように見える面白さというのもあります)。


さて、自分がどんな相手をフォローするかによって、自分のタイムラインに表示されるつぶやきの総体に含まれるジャンルや分野は変わってくるわけです。私の場合、ともかく当方をフォローしてくださる方は基本フォローし、日々関心事である、書物や出版を筆頭に、学術、人文学、芸術、小説、文学、批評、映画、音楽、建築、言語学、各種自然科学、ゲーム、アニメ、漫画、政治、経済、医学、翻訳、社会科学、プログラミング、情報科学といった事柄に関してなにがしかつぶやいている人を中心にどんどんフォローしています。


ですから、いつタイムラインを覗いても、誰かがこうしたことに関する何事かをつぶやいているという塩梅です。私は常日頃、自分の脳裏に収まっている(かもしれない)記憶から何かを取り出したり、シャッフルしたり、増補したり、かきまわして、ぬか床の世話をするように、脳内にある知のネットワークを耕すことに関心があるものですから、こんなにありがたいものはないわけです。



例えば、誰かがフェリックス・ガタリの刊行されたばかりの翻訳書『アンチ・オイディプス草稿』(國分功一郎+千葉雅也訳、みすず書房、2010/01、ISBN:4622075148)について語っていれば、「そういえば、あの本には何が書いてあったかな」とか、「原書のあのくだりはどう訳したのか、ぜひ見てみたい」とか、「最近ガタリに関する研究書は出ているものだろうか」など、ガタリに関する記憶やそこから連想される様々なことを一巡り考えさせられるわけです。


ここで私にとって重要なことは、こうした言葉や議論が、あちらから勝手にやってくるということに尽きます。言い換えると、自分から検索したり、希望したり、意志してたぐり寄せるのではなく、頼んでもないのに向こうからどんどん飛んでくることが最高に面白いのです。


なぜそれがいいのだと言われるといささか困りますが、少し気取って言うことをお許し願うと、「未知との遭遇」を求めており、その未知との遭遇が楽しいのです。例えば、日頃様々な雑誌を特集に対する関心の有無に関係なく入手して眺めるのは、ほとんどそのためにやっているようなものです。もちろん、一口に「未知」といっても、全く何も知らないことから始まって、一応知ってはいるものの、そこまでは知らなかったということや、知っているつもりになっていたけれど、まだまだ知らんことがあったということまでを含んでのことです。


twitterというツールは、こうした未知との遭遇の確率と頻度を、ぐっと高めてくれるため、ついつい時間を見つけては覗いてしまうのでありました。また、自分はそういう使い方をしているものだから、他にもそんな人がいないとも限らないと思って、そのつど思いつくことや手にした書物やゲームのことなどを投稿したりもしています。


★その2――巨大なアゴラ(ポスト談話室滝沢


もう一点は、余録のようなものですが、タイムライン上で、こんなことでもなければ見知らぬままでいたはずの他人とのおしゃべりが発生することです。


確かに、ブログやmixiなどでも、見知らぬ人との遭遇や会話は発生するのですが、その気軽さ加減がtwitterでは、他のサーヴィスの比ではないように感じます。タイムライン上で興味を惹かれたことがあれば、その発言主に向けて、先方の目に入るかどうか、応答があるかどうかは別として、ともかく「それならこんなこともありますね」などと応答をすることもできます。そして、場合によってはそこからしばし、興味を同じうする者同士の対話が生じるわけです。


喩えるなら、電車で八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』(春秋社)を読んでいたら、その表紙を見かけた人が、たまさか中世ヨーロッパ思想に関心のある人で、「おや、あなたもお読みですか」と話しかけてきて、そこから下車するまでの間、普遍論争や天使という存在についてあれこれ話し合うような感覚です。要するに、見知らぬ者同士の談話が生じるための敷居が低い感じがして、そのことがまた面白いわけです。



先日も、聖書についてつぶやいていたら、それをご覧になったフランス文学の鈴木創士さん(http://twitter.com/sosodesumus)から、いろいろなことを教えていただく、なんてことがありました。鈴木さんとは知己ではなかったわけですが、そんなことが重なってゆくと、twitter友だちというか、ゆるやかに知を共有・交換するような知人が増えてゆきもします。ここで歴史中の事例を思い起こすなら、18世紀のコーヒーハウスなんていうのは、こうした雰囲気だったのかしら、などとエエ加減な連想も働きます(とは、再読中の『吾輩は猫である』に登場する迷亭君の毒気に当てられてのことであるような自覚はあります)。


そうそう、中にはtwitter上で論争的な対話が生じる場面もいくつかお見かけしました。昨今では、かつてのように論壇誌や文藝誌が、そうした論争の場として機能することをほとんど見かけなくなりましたが、twitterのような場は、バーに飲みに来た作家と批評家がたまさか顔を合わせて、ここで会ったが百年目といった風情で言葉の果たし合いを始めるといった使われ方もするようです。つくづく、人間は言葉を使う唯一の動物であるというアリストテレス先生の言葉を噛みしめ直す次第です。


そんなわけで、昨今私のネット利用は、すっかりtwitterが中心になっていますが、不思議なもので、1回140文字の投稿を続けていると、だんだん長い文章への飢餓感が湧いてきます。他の人は分かりませんが、私の場合、例えば、面白く読んだ書物について、まずはtwitterに「これこれこんな内容の本だった」とつぶやくわけですが、これでは明らかに言い足りません(ついでに言うと、このつぶやきは、その本についてまだ知らずにいる潜在的な読者に、本の存在をピンポイントで知らせるという意味では、かなり手応えを感じます。実際にそうなさったかどうかは分かりませんが、自分が紹介した書物について、「おお、そんな本がありますか。ぜひとも買い求めて読みます!」とおっしゃる方を少なからずお見かけします)。すると、不思議なことに、この本について、ぜひとももっと長々とあれこれ言ってみたいという心持ちになってきます。その結果、変な話なのですが、最近放置していた当ブログに、改めて書き綴ってみたいものだという気持ちが高まってきたのでした。


そこで、早速何冊かの本について、何本かの映画について、エトセトラ、エトセトラ、ご紹介がてら話そうと思ったのでしたが、なにやらtwitterについて思った以上に長々と述べてしまいました。次のエントリーに改めましょう。


twitter > yakumoizuru
 http://twitter.com/yakumoizuru/
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