その1:シカゴ・ロンドン間も一文で


 思いつきで新しい試みをひとつ。「冒頭拝見」と称して、手近にある書物の最初の1ページを玩味してみたいと思います。映画やゲームなどもそうですが、人が初めて(あるいは何度目かだとしても)或る作物に触れて、それを体験するとき、とりわけその冒頭で何が起きているのかということが気になっているのでした。


 書物でいえば、読者がその書物を開いて最初に遭遇する文章に接し始めるとき、そこではどんなことが生じているのか。「どんなことが」といっても、要するにその書物の冒頭いくつかの文章を受けとった読み手は、何をどう感じるのか。あるいは、書き手はどんなふうにして、自分の書物の冒頭を始めようとしているのか。そんなことを気ままに眺めてみようという趣向です。


 例によっていつまで続くか分かりませんが、思いたったらさっそくにというわけで唐突に第1回にとりかかってみようと思います。今回は、たまさか先日読み終えたチェスタトンの小説です。

新聞記者のプロローグ


 シカゴ・コメット紙のエイサ・リー・ピニオン氏はアメリカの半分を横切り、それから大西洋の全部を横切って、ついにピカデリー・サーカスへと至った。令名高き、あるいは悪名という見方もあるが、ともかくも著名なるラウル・ド・マリラック伯爵の跡を追っていたのである。ピニオン氏はいわゆるネタなるものを手に入れたかった。自分の勤めている新聞に用いるためのネタである。結局、喜ばしいことにネタはピニオン氏の手に落ちた。しかし氏はそれを新聞記事にすることはなかった。氏が入手したそれは天翔る彗星【コメット】にとってさえもあまりに屹立しすぎていたのである。おそらくこの比喩はいくつかの意味において正しいだろう。ピニオン氏が聞いた話は教会の尖塔ほど、さもなくば星々に届くほど高かった。信憑性と同様に、それは理解力をも超越していた。ピニオン氏は読者の不評をあえて招くような真似はしないことにした。しかし、より高貴で崇高で、聖者のごとく疑うことを知らない読者のために書いている筆者は、ピニオン氏の沈黙に倣うことはしないつもりである。



 これは、G. K. チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton, 1874-1936)の小説『四人の申し分なき重罪人』西崎憲訳、ミステリーの本棚、国書刊行会、2001/08、ISBN:4336042411; ちくま文庫、2010/12、ISBN:4480427791)の冒頭。原書はFour Faultless Felons(1930)。文庫本では、最後の一文の「ピニオン氏の」までが1ページ目に収まっているが、ここでは第一段落が終わる文末までを掲げてみた。


 西崎憲氏による邦訳では、この段落は全部で12の文章からできている(ただしタイトルは除く)。該当する原文では、数え方にもよるけれど7文(セミコロンで区切られた前後の文を一つと数えた場合。二つと数えるなら、9文)。


 さて、冒頭から味わってみる。タイトルに「新聞記者のプロローグ」とあるから、読み手としては、「そうか、以下に書かれている文章は、どこかの新聞記者によるものなんだな」という心構えができている。その第一文はこう始まる。

 シカゴ・コメット紙のエイサ・リー・ピニオン氏は……


「シカゴ・コメット紙の」とは、新聞の紙名であろう。つまりこの文章は、新聞の名称から始まっている。それに続いてすぐ目に入る「エイサ・リー・ピニオン氏」が人名だということも「氏」という言葉で分かり、ここまでの文章から、これから或る新聞社の或る人物がなにかをするのであろうと予測される。まずもって動作主とその属性が提示されるという、ごく当たり前の運び。


 ちなみにこの冒頭、英語ではどうなっているか。

Mr. Asa Lee Pinion, of the Chicago Comet,


 こんな風に名前から始まって、カンマで区切って「シカゴ・コメット紙のね」と後から属性を追加する。細かいところだけれど、英語と日本語では小説を読み始める読者が最初に目にする言葉が、こんなふうに違っている。誤解なきよう申し添えると、それが問題だと難じているわけではない(西崎氏の翻訳は、達意の訳業だと思う)。言語によって、より自然に感じられる言葉の運びが違うということが、こうしたところからも垣間見えるということを見ておきたいと思ったのだった。


 さて、ではピニオン氏はなにをするのか。

アメリカの半分を横切り、それから大西洋の全部を横切って、ついにピカデリー・サーカスへと至った。


 ピニオン氏は、一文にしてシカゴからロンドンまで移動しおおせた。いや、「シカゴから」と明示されてはいないものの、「アメリカの半分を横切り」というから、「シカゴ・コメット紙」の社屋はシカゴにあるのだろう、と想像してのこと。もちろん、ピニオン氏の出発点が「シカゴ・コメット紙」社屋だとはどこにも書いてない。読み手の私が勝手に、というよりもほとんど無意識のうちに推測して補完したことだった。


 それにしても、これが文章のすごいところで、或る人物を一文の中でひょいと一瞬にしてA地点からB地点へと動かしてしまう。AとBがどれほど離れていようとも。もっとも、映像の場合でも、シカゴにいるピニオン氏⇒ピカデリー・サーカスにいるピニオン氏、と映像をつなげば似たような効果が得られるだろう。とはいえ、文章のほうは一文である(しつこいようだが)。


 チェスタトンは、ピニオン氏がどこから出発したのかとは言わず、ピニオン氏が横切った空間を、「アメリカの半分」「大西洋の全部」と、陸、海を並べて、目的地だけを「ピカデリー・サーカス」と明示する。脳裏に世界地図を思い浮かべられる読者なら、映画「インディ・ジョーンズ」で、ジョーンズ博士の移動が地図上の飛行機の移動で示されるような感じで、北米の真ん中辺りから大西洋のほうへと東に進み、イギリスへとイメージの上で移動するかもしれない。しかもチェスタトンは、何でどう移動したかとは書いていない。双六の盤上を移動するように、ピニオン氏というコマが、ひょいっと地球上を移動する。


 改めて言うまでもないことかもしれないけれど、文章を書くということは、同時に何かを書かないということでもある。作家や物書きが書いたものを見るとき、何を書いているかということと同時に、何を書いていないかということに注目してみると、いろいろ興味あることが見えてくることがある。


 それはともかく、大移動をしおおせたピニオン氏、次はいったいどう出るか。だいたいなんだって、そんな移動をしたのだろうか。

令名高き、あるいは悪名という見方もあるが、ともかくも著名なるラウル・ド・マリラック伯爵の跡を追っていたのである。


 なるほど、人を追いかけていたという次第。追いかけるという以上は、このラウル・ド・マリラック伯爵なる人物もまた、アメリカの真ん中辺りから大西洋を渡ってロンドンにやってきたということだろうか。もしそうだとすると、先に推測補完したピニオン氏の出発点は、正しくないかもしれないぞ、だなんて思いが脳裏をよぎる。ピニオン氏がマリラック伯爵を追っていたのだとすれば、伯爵がいた場所からついていったということだろうから。


 しかし、気になるのは「令名高き、あるいは悪名という見方もあるが、ともかくも著名なる」という形容句。これは一体誰による人物評なのか。ここで私はこの文章の書き手の存在を強く感じた。言葉を補えば「世間の評判では、令名高いという人もあれば、いやいや悪名だろう、という見方もあるものの」といったところか。そんなふうに世評を傍から眺めているような書き手は一体誰なのか。そんな疑問が浮かんでくる。


 このくだり、原文では第1文から続いている。"Piccadilly Circus"の後にカンマで文章がつながっている。

in pursuit of the notable, if not notorious figure of Count Raoul de Marillac.


 つまり、どうしてそんな移動をしたのかという動機が、"in pursuit of 〜"と続く。かようにピニオン氏がロンドンくんだりまでやってきたのは、「〜を追いかけてたんだね」という次第。なんとも息の長い文章で、訳者はきっと読みやすさを考慮してこれを見たように二つに分けて訳している。敢えて原文通りにつながった形にするとしたらどうなるだろう。西崎氏の訳文をお借りして、ちょっと手を加えてみるとこうなろうか。

 シカゴ・コメット紙のエイサ・リー・ピニオン氏はアメリカの半分を横切り、それから大西洋の全部を横切って、ついにピカデリー・サーカスへと至った、というのも令名高き、あるいは悪名という見方もあるが、ともかくも著名なるラウル・ド・マリラック伯爵の跡を追っていたのである。


 いやはや大変な文章だ。ピニオン氏なる新聞記者(これも現段階では推測)がアメリカから海を渡ってイギリスへ赴いた。それもマリラック伯爵なる著名人を追いかけてのこと、というふうに一人の人物の行動が、移動した空間と動機(対象であるもう一人の人物)とで述べられている。しかも1文で(邦訳は2文)。


 こうなると読んでいるほうとしては何が気になるか。既知の情報は、まだ述べられていない未知の情報の存在をほのめかす。読み手は、そのほのめかされているものを感じとり、知らず識らずにそのことを気にかける。私の場合、ここで「なんだってピニオン氏は、伯爵とやらを追いかけているんだろうか」と思い、「ピニオン氏が新聞記者だとすれば、伯爵はなにかゴシップのネタでも抱えているか、それに似たようなことを疑われているかして、目をつけられているのかしら」、などと想像を逞しくするわけである。


 想像もなにも、これはつまり、1930年前後のアメリカやイギリスの新聞記者や伯爵がどういう存在だったかということを熟知してのことではなくって、21世紀の日本に生きる自分の貧しい経験の範囲に照らしてみて、新聞記者が著名人を追いかける場合といえば……と連想をしてみたまでのこと。時代や文化が異なる書物を読む場合、こうした連想や想像の働き加減で、文章を読む際の摩擦のようなものが増えたり減ったりするのも面白い。いまでもよく思い出すのは、昔ロシア文学を読み始めたとき、どうしても「サモワール」なるものがイメージできなくて困り果てたこと(いまのようにネットで検索すればなんとかなる時代ではなかった)。


 そんなことを思いつつ次の文を見る。

ピニオン氏はいわゆるネタなるものを手に入れたかった。


 焦点は相変わらずわれらがピニオン氏に当たっている。ここで「ははーん、やっぱりこのピニオン氏は新聞記者なのね」と確信を得るとともに、改めてこの文章が過去形で綴られていることにも目が向く。ここでネタと言うのは、もちろん追跡している伯爵に関係することなのだろう。

自分の勤めている新聞に用いるためのネタである。


 ネタの用途が述べられている。先の確信がさらに裏打ちされて、ピニオン氏はしかし、どんな種類の新聞記者であろうかだなんてことも気になってくる。文章はこう続く。

結局、喜ばしいことにネタはピニオン氏の手に落ちた。


 あっけらかんと結果が報告される。ピニオン氏は、どうやら望み通りにネタを手に入れたのか。しかし、どんなネタを? どんなふうにして? またぞろ気になることが増えてくる。この辺で原文も見てみよう。いま立て続けに見た三つの文章は、こんな具合。

Mr. Pinion wanted to get what is called "a story"; a story to put in his paper. He did get a story,


 一つ目の文と二つ目の文はセミコロンで結ばれている。「ピニオン氏はいわゆるネタなるものを手に入れたかった。」、それはどんなネタか? 「自分の勤めている新聞に用いるためのネタである。」という、とりあえず述べたことの一部をさらに具体化してみせるという表現の仕方。三つ目の文章は、原文ではピリオドではなく、カンマで後に続いている。


 この三つの文章はちょっと面白く感じられる。言葉のリズムと言おうか、なんと言おうか。まず、"a story"という言葉が三つの文章に一度ずつ現れる。それから、その"a story"をどうするのかという動詞に注目すると、get, put, getとあって、「取る(取りたい)」「入れる(入れたい)」「取る(取った)」という繰り返しが、一種の往復運動のようなイメージを喚起する。欲しい⇒入れたい⇒取った! というピニオン氏の(希望を含む)動作の三連続から、四コマ漫画の最初の三コマを眺めているような心持ちがしてくる。


 しかも、先ほども触れたように、ここにはなんら具体的な経過は書かれておらず、きっとあったに違いないピニオン氏の奮闘はばっさり割愛されている。加えて、冒頭の文章が示していたように、ピニオン氏はアメリカの半分、大西洋の全部を横切って、はるばるロンドンまでやってくるという、結構手間のかかる労力を払っているだけに、結果報告の簡潔さがかえって際だっても見える。本当なら、ピニオン氏の苦労を綴るだけでも、お話になりそうなところをあっさりすっ飛ばすところから、そんな顛末より気になることがこの先にあるのかもしれない、だなんて欲張りな読者は期待したりもする。


 じゃあ念願のネタを手に入れたピニオン氏はどうしたのか。

しかし氏はそれを新聞記事にすることはなかった。


 というわけで、せっかく手にしたネタを使わなかったというのだが、一体全体これいかに。さしづめデスクから突っ返されたか、手に入れてみたら使えないネタだったか。原文はこう。

but he did not put it in his paper.


 ここに来て、"a story"がitとなっているのは、この文章の直前、同一文内に"a story"があるからだろう。動詞のほうは、(did not) putだから、get, put, get, putと繰り返した形になっている。先ほど四コマ漫画のようだと書いたけれども、これは落ちの四コマ目といったところだろうか。欲しい⇒入れたい⇒取った!⇒使わなかった、とここで一旦話にオチがつく。


 それにしてもチェスタトンの筆は、飛び石をひょいひょい飛ぶように進む。


(つづく?)