うっかり役に立つ



 学生の皆さんと話していると、ときどき「それをいま勉強すると何の役に立つのか判りません」という意見が出てきます。例えば、「数学なんて、人生で使うことあるんですか?」といった具合です。


 「役に立つ」という言葉は、一見とても分かりやすくて、誤解の余地がない言葉に見えますが、よくよく考えてゆくと、こんなに訳の分からないこともありません。いえ、きちんと訳が分かるようにするコツはあります。それを忘れてしまうと、訳が分からなくなるのです。


 「それって役に立つの?」という問いをはっきりさせるために、日本語としては不自然になりますが、言い換えるとこうなります。「それって私にとって何の役に立つのか判らない」と。


 ここで問題は、「私にとって」というところ。ここにさらに言葉を補えば「いまの私にとって」となるでしょう。「考えてみるに、それがいまの私にとってなんの役に立つのか判らないよ」というわけです。


 それに対して、「いやいや、将来役に立つこともあろうから、ぐっとこらえてやっておきなさい」と答えても、これはなかなか伝わりません。そりゃそうです。「具体的には?」と訊かれて、「あー、オホン、かくかくしかじかのような場合には、三角関数だって立派に役に立つ」などと具体的に答えれば「私はそんなことしないから関係ない」とにべもなく返ってきます。


 つまり、「役に立つ」ということには、時間や状況の範囲があるわけですが、ただいまこのときだけのことを考えれば、大抵のことは役に立たないでしょう。要するに、「役に立つかどうか判らない」とは、「私は将来何を必要とするか、いま判らない」ということでもあるのです。この、いつ役立つのか、どんなとき役立つのかという、時間や条件の範囲を明確にして考えることが、先ほど申したコツのようなものです。とはいえ、いま述べたように、それは具体化した途端、意味がなくなったりもします。


 では、どうして将来自分が何を必要とするか判らなかったりするのに、いま或ることを学ぶのでしょうか。教育の歴史を眺めてみると、西欧などでも、中世には自由七科といって、いまで言う理系文系の七つの科目をセットにして考えていました。目下日本で行われている教育も、もとを辿れば、明治期に欧米から移入したものを基礎としていますから、中世ヨーロッパの修道院の話といえども、まったくの他人事ではありません。


 修道院の文脈で言えば、彼らはキリスト教の伝統に乗っていますから、神がおつくりになったこの宇宙について、よりよく知ることは、すなわち神についてよく知ることでもある、という趣旨です。そうした名目の下、宇宙や地上の森羅万象について学び知る。そのための基礎科目セットとして、自由七科があったとも言えるでしょう。


 翻って考えるに、日本の義務教育には、多くの場合、(神がつくったかどうかは別としても)そうした「この宇宙を知る」といった動機は希薄です。ようわからんけど、昔からこういう仕組みらしいぜというので、先達がこしらえたものを受け継いでやっているので、そうした場面では「なぜこうなった?」ということが見逃されがちでもあります。


 しかし、考えてみれば、この宇宙(という言葉がオオゲサ過ぎるなら、世界でもいいのですが)について知っておくということは、単に知的好奇心を満足させるという効能があるばかりではないと思います。


 将来、自分が何を必要とするか、いまの時点ではよく判らないけれども、何かが必要になったとき、そのことを修得するために必要な基礎だけはつくっておく。最低でも、この足がかりだけつくっておけば、あとはその上に必要に応じたものを組み立てられる、そういうミニマルキットのようなものです。


 例えば、私の場合、数学は下手の横好きでしたので、一応それなりに学んだのですが、これは後になってゲーム制作者となってから、思ってもみなかった効果をあれこれ発揮することになりました。三次元表現が当たり前になった現在のコンピュータ・グラフィクスやそれを駆使したゲームでは、そのように表現するための数学や物理演算が必要なのです。また、基礎的な数学を学んでいたおかげで、その後カオスや人工生命などに関心をもったおりにも、専門書を読んだり、それをプログラムに応用して、ゲームをこしらえたりもできたわけです(佐倉統先生たちと人工生命の本の翻訳に携わったのもその余録みたようなものです)。


 また、社会人になってからホメロスプラトンを原語で読みたいという動機で、それこそそれ以外になんの役に立つのか全然判らない古典ギリシア語を習おうと、何年かアテネフランセに通いました。やってみて後から判ったことは(と言っても、ずっと修行中の身ですが)、いわゆる古典語(古典ギリシア語、ラテン語)をある程度弁えておくと、それらを根とする各種欧語を読むときに、絶大な威力を発揮するということでした。そんなつもりはなかったけど役に立ってしまっているのです。


 とはいえ、こうした経験を学生の皆さんにそのままお話ししても、たまたまうまいこといった成功体験や自慢話ということになってしまいかねません。いまの自分には、なぜそんな科目を学ばねばならないのか、よく判らないけれども、それはやがてなにかが必要になったときのためだ、ということを、なんとかうまいこと説明できないかなと想い続けて早幾年です。


 これは哲学思想的には、古典ギリシア以来の潜在/顕在の議論でもあり、コンピュータでプログラムを組むことを具体例として媒介すると、なにか説明できるような気がしています。


 ここ数年、専門学校や大学で、どういうわけか先生のようなことをする立場になって、春が巡ってくるとこんなことを思うのでした。


 それこそ自分から先生になろうと思ったことは一度もなかったのですが、ご縁があって「講義をやってみませんか」という状況に遭遇し、見よう見まねでやっている次第です。


 そこでは、かつて何の役に立つのかなんて考えずに触れてきたゲームや本や映画や音楽が、すっかりというか、うっかり「役に立って」しまっています。そう、「役に立つ」ということは、多くの場合、事後的に発見されるものなのです。事前に言えるのは、過去の経験上、どんな場合に役立ったかという経験です。問題は、常に事後的にしか役に立ったかどうか分からないことを、いかにして事前に過去の経験をも踏まえながら仕組むか、ということなのです。