第5回 モンタージュ――異なるものをつなぐ技




第5回目となる今回は、前回の補足として、「潜在性」に関するアリストテレスの『形而上学』における考察を紹介してから、次のテーマである「モンタージュ」に進みました。


モンタージュ(monatage)とは、フランス語で言う、機械などの組み立てのこと。映画ではさしづめ「編集」という意味になるでしょうか。フィルムとフィルムをつないでゆくことです。


短い映像を題材に、それらがどんなショットの連続からでてきるのかということをつぶさに見てとり、また、そこに生み出されているモンタージュの特徴を観察します。


この映像文化論の講義では、映像によって描き出される物語やその意味の話は、あまりしません。いくつかの理由がありますが、一つには放っておいても人は、映像に意味を見出そうとするし、物語の筋を語るからです。もう一つは、映像を観てその筋だけを問題にしたいのであれば、題材は映像である必要もないからです。映像を観る以上は、そこに何が映っているのか、何が鳴っているのか、そのことを中心的な問題にしたいと考えています。


それよりは、まず目と耳から入ってくるもの、映像そのものがどのようなものであるのか、それがどう知覚されたのかということを、じっくり、そしてしっかり見抜くことを実践してみたいわけです。


昨年担当した際も、このことを何度か強調したところ。しかし、それにもかかわらず、最終的に提出されたレポート(映像を1本選び、その中から1分の映像を選んで、記述・分析せよというお題)に対して、あいかわらず「筋書き」ばかりを追いかけるものが散見されました。「出欠は取らねどそこで検討されることの意味を理解しなければ最終レポートは書けませんよ」と言ったのは、そのような意味であります。今回も、課題こそ違う内容になるとはいえ、同じことが言えます。


もちろん、だからといって映像から、それを観る人の脳裡に生じてくる意味は大事ではない、という意味ではありません。ただ、ここではそのことを中心に語るよりも、映像がどのようなものであるかということを、もっとよく観てみたいのです。


というわけで、次回は引き続きモンタージュという方法はなにをしていることになるのか、ということを検討して参ろうと思います。