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待ちきれないってどいうことだっけ


本やDVDやゲームその他なんでもよいのだけれど、手に入れるまではとても楽しみにしていたくせに、いざ手元に届くとその辺に積み上げて満足してしまうということがある。


と、こう書いてみて、記者かなにかに「先生は、この書架の本を全部読まれたのですか?」と尋ねられたある作家が、「そんなわけないだろう」と答えたという逸話を思い出す。


気に入って手に入れる。しかし手元にあるのだから、そのつもりになりさえすれば、いつでも読んだり観たり遊んだりできるというので安心してしまうのかもしれない。そうしてやがて、どうしてそんなものを手に入れたのかも忘れてしまう。(とはいえ実際には、そのようにして手に入れておいたものが、後々思いがけない形で役に立つことも多々ある。とは、蔵書家が疑いの目を向ける家族を説得する際に援用する言い訳でもある……)


しかし他方で、いつでも触れられるとか、いつでも手に入るという気分があると、「いますぐ読まねば、次はいつ読めるか分からない」といった、書物が貴重品で鎖でつながれていた時代の修道僧のような気分や、「この上映を逃すともう一生観られないかもしれない」といった、ヴィデオが登場する以前の映画愛好者が感じていたかもしれない、苦しくも楽しい切迫感は薄れてゆく道理でもある(実際、いまだDVDにもヴィデオにもなっていないけれども、いつかどこかでかからないかしらと熱望している映画が何本かあったりもする)。


これは自分の場合に過ぎないかもしれないが、とりわけインターネットを使った各種サーヴィスが充実してきた近年、そうした切迫感のようなものにとらわれる機会は、ますます減ってきたように感じている。平たく言えば、「いつでも手に入るなら、いまでなくてもいいじゃない」という怠惰な気分が、居心地のいいソファかなにかに寝そべって全力で手足を伸ばしてだらけきっているような感じなのである。


それはそれでいいかもしれない。でも、自分としては、そればかりでもなんだか困るようにも思う(なぜだかは分からない)。サンボマスターが、歌のなかで「欲望をくれよ!」と叫んでいるのも、そういう事態についてなんじゃないかと勝手に思っている。そう、問題は欲望の行方なんである。


かつて、雑誌の次号発売が待ち遠しかったりした、あの気分はなんだったのか。そういうことについて、もうちょっとぐるぐると考えてみたい。