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災い転じてモノサシとなす



この『自殺』という本を読みながら、末井さんの文章に感じることを一言でいうとしたら、「楽しい」というのが一番近いと思います。それと同時に、書名の「自殺」という言葉が念頭にあるものだから、「自殺の話で楽しいってどういうことだろうか」と、ちょっと変な気分にもなってきます。この「ちょっと変な気分になってくる」というところが、この本の面白いところです。


私自身は、末井さんがこの本で述べているのと同じように、自殺については、よいこととも悪いこととも思っていません。思っていないのですが、普段自分ではほとんど使うことがない言葉でありながら、各種メディアで目や耳にする「自殺」という言葉の使い方から、知らず識らずのうちにネガティヴな印象を植えつけられてもいるのでしょう。『自殺』を手にすると、そんなふうに社会ではよろしくないものとされがちな自殺の話を読むことになるわけですが、末井さんの文章が楽しいのもまた事実で、先に述べたような奇妙な読後感がもたらされることになるわけです。そして、これは(私の貧しい読書経験に照らしてということなのですが)なかなか味わうことの稀な、得がたい感覚のように思います。


どうしてそうなのか、もう少し考えてみたいと思います。


第一、末井さんがこの本で描いていることは、自殺を中心として、震災、貧乏、病気、いじめ、借金、ギャンブル、うつ病、ホームレス、アルコール依存、恋愛のもつれなどなど、それこそ私たちのすぐ身近にある苦難のオンパレードで、さながら現代社会難問コレクションといった按配です。しかも、末井さんご本人だけでなく、青木麓さんや月乃光司さんの経験談、法医学者の吉岡尚文さん(『秋田県の憂鬱』の著者)、作家の早野梓さん(青木ヶ原樹海案内)といった人たちへの自殺に関連するインタヴューも交えて、普通に考えれば暗い話題が満載の書物であります。


実際に私は、この本を読みながら、何度も「なんという現代の地獄めぐりだろう」という感慨を禁じえませんでした。あっちの困難をようやく抜けたと思ったら、こっちの困難が待っており、という末井さんの人生行路は、戦地から帰郷したいだけなのに、自分の屋敷に帰り着く最後まで、さんざんな目に遭うオデュッセウスユリシーズ)もかくやという艱難辛苦に満ちているのです。



しかし、そうした苦難の体験が語られる様子を見ていると、末井さんの語り口はごく穏やかだし、ご自分の苦い経験を赤裸々に語りながらも、「こんなことしちゃってバカだよねぇ」というからかいを含んだような距離の取り方もあって、なんだか野坂昭如の小説で、ハチャメチャな人びとがアイディア一発出たとこ勝負で世を渡ってゆく様子を読んでいるような愉快な心持ちになってくるのも確かです。それだものだから、自分が同じ目に遭ったら辛くて逃げ出したくなるような経験が語られてゆく文章なのに、ついつい先が気になってとうとう最後まで読んでしまうわけでした。


さて、これは私の勝手な推測なのですが、末井さんがこの本で書いていることの根底には、一本の筋金が通っているように見えます。それは、自分のことや周囲の状況や社会といったことについて受けとめたり、考えたりするとき、ものの見方やモノサシは一つじゃないよ、ということです。人が苦境に陥って、もうどうしようもないと困り果てるとき、実際には一つのモノサシだけでその出来事を評価して、そう思い込んでいるということは存外少なくありません。


例えば、自殺の原因で一番多いのは健康問題、その次に多いのは経済、お金の問題とのことですが、それについて末井さんは、こう言います。

お金のことで死ぬなんて馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しいなんて言うと亡くなった人に悪いのですが、お金のことなんかで死んで欲しくありません。そんなことで深刻になる必要はまったくありません。

(同書、134ページ)


もっとも、ここまでなら末井さんでなくとも、同じように助言する人がいるかもしれません。しかし、末井さんの場合、ここから先がちょっと違います。先物取引に手を出し、3000万円以上を摺り、不動産購入も含めて一時は3億円の借金を背負うことになったご自身の経験が飄々と語られるのです。バブル経済の時代とはいえ、個人でそれだけの借金となれば、途方に暮れる規模であります。その後、弁護士に頼んで8500万円の借金を帳消しにしてもらったという末井さんは、こう語っています。

八五〇〇万円の借金がなくなってずいぶん楽になりました。しかし、それで借金がなくなったわけではなくて、いまも四五〇〇万円ほどの借金を銀行と交渉して毎月五万円ずつ返しています。返し終わるまであと七十年ぐらいかかる計算ですが、自分のことながら、もう人生を超越しているような話です。
 借金で苦しんでいる人は、ないものはないと居直ってしまえばいいんじゃないかと思います。別に命まで取られるわけではありませんから。それで、自分で返せる範囲で返していけばいいのです。それがたとえ毎月数千円でも。それができなければ自己破産という手段もあります。自己破産した人も知っていますけれど、ちゃんと生活しています。それに、何も持たない無一物の人だって世の中にはいっぱいいるのですから。

(同書、158ページ)


まさにご自身の経験に裏打ちされた居直りの勧めですが、それは別の言い方をすれば、ものの見方を変えてみてはどうかという提案でもあります。厖大な借金を返せず申し訳なく苦しいというモノサシだけで考えてしまえば解決の見込みもなく、絶望する他はありません。でも、返せるものしか返せないのだと開き直ることで、生きていこうじゃないか、それでいいじゃないかというわけです。それにしても、1948年生まれの末井さんは、当年とって65歳前後ですから、返済まであと70年とは、ほとんど冗談のような状況であります。


と、これは同書で語られることの一例なのですが、どうも末井さんは、苦難を経験するつど、そうした現実を見るモノサシを増やしているようなのです。誰もが経験することでいえば、病気の例が分かりやすいかもしれません。風邪でもなんでも、病気の状態になると、健康なときには意識さえしていなかったほど当然のことだと思っていた身心の滞りない働きが、いかにありがたいことであるかと身に沁みるものです。つまり、病気という状態になることで、健康という状態の価値を知ることができる、健康の価値を測るモノサシを手に入れるわけです(もっとも治ったらけろりと忘れちゃうことも多いのですが)。バートランド・ラッセルでしたでしょうか、イギリスを離れたことのない者にはイギリスのことは分からないという言葉があります。日ごろ慣れ親しんでいる場所や状況というものは、そこから離れてみないとその実よく分からなかったりします。離れてみて、はじめて「ああ、そういうことなのか」という具合に、日ごろ見えていなかったことが目に入るようになります。


末井さんは、貧乏、お母さんの自殺、病気、いじめ、借金、うつ病、ギャンブル依存、アルコール依存、恋愛のいざこざなど、いずれも人を絶望させる材料になるような経験をするたびに、当たり前の日常からもぎ離されて、そのつど、それまでとは違った現実を見るモノサシを手にして日常世界へ還ってきたのではないか、そんなふうにも見えます。


そして、明日地球が滅亡するといった類の、文字通りの絶望的状況は別としても、モノサシの種類が増えて、ものを見る目が多様になると、一見して絶望のように見える状況も、当てるモノサシを変えることで、「まあ、なんとかなるでしょう」と思えたり、気が楽になったりすることは、たしかにあります。


例えば、専門学校のゲーム制作で、学生たちがしばしば「(解決不能の問題に行き当たって)もうどうしようもないからチームを解散したい」と泣き言を言います。よくよく話を聞いてみると、彼らが解決不能だと思い込んでいる問題のほとんどは、たまたま自分が持っていたモノサシだけで測ったから解決できないように見えるだけで、実際には考え方を変えれば何通りも解決の仕方がある、ということが少なくありません。と、これはおよそ絶望というような話ではありませんが、こうした程度のことは、私たちの日常のあちこちにあると思うのです。そして、末井さんの言葉は、そうした比較的小さな悩みから、もう死ぬしかないという悩みまで、「ちょっと待って。肩の力を抜こうじゃないのさ」と語りかけてきます。袋小路だと思って嘆いているけど、ひょっと後ろを振り返ったら出口があったりするもんだよ、と。


ことによったら、「そうはいってもなかなかそんなふうに発想を切り替えられないよ」と思う人もいるかもしれません。そう思えるのは、末井さんがいろいろな困難をかいくぐってきたからではないか、と。半分はその通りかもしれません。でも、末井さんの壮絶な(と、私には見えます)困難とのつきあいを、こうして垣間見させてもらっていると、なんだか笑ってしまうことがあります。この「笑っちゃう」というところがポイントです。


末井さんは、本書のなかで、苦しいことをブログに書いて人に読んでもらうといいんじゃないかとも勧めています。

表現するということは、自分の体験をフィクション化することで、そうすることによって、心に棘のように刺さっていたものが取れていくような気がします。社会的にはマイナス要素のようなことでも、それでみんなに笑ってもらったりすればプラスに転化できるのです。

(同書、351ページ)


読者が『自殺』を読んでいて思わず笑ってしまうとしたら、もちろん他人事だからなのですが、同時にそれは、末井さんの文章が、ご自身の経験を一種のフィクションとして、他人事のように書いている効果でもあると思います。


自分の経験を言葉にしてみることは、それ自体が一種の突き放しであり、自分を客観視することでもあります。この、自分の経験から距離をとれるということが貴重です。また、自分の経験を言葉で書いてみるということは、末井さんも言っているように、それ自体がフィクション化なのですね。これは漱石先生がしきりに言っていたことでもありますが、人はなにかを書こうという場合、経験したことの全てを書き尽くせません。おのずと経験や考えたことのうち、一部分を選び出して書くことになります。選ばれなかった部分は捨て置かれるわけですから、結果的に書かれたことは一種のフィクション、虚構の物語になるわけです。


そして、経験を取捨選択して書こうという場合、自ずと出来事を対象化することにもなります。それは経験したことを、言葉という自分の外側にあるモノにしてみることで、それを眺めて「ああ、こういうことだったんだな」と確認することだと言ってもよいでしょう。いつもそうだとは限らないとしても、物語にすることや物語を読むことには、こうした効果があると思います。考えてみれば、私たちが楽しんでいる小説や漫画や映画やドラマの大半は、他人がなんらかの困難に陥って苦労する話ですね。



それはともかくとしても、末井さんの『自殺』という本は、いろいろややこしくて苦難も少なからぬ現代で、それでもどうやって心安らかに暮らしていけようかという、一種、心の養生訓とでも言うべきものだと受け取りました。そんなわけで、私はこの本を、古代ローマで、やはり心の安寧をいかにして得るかという問題を考えたエピクテートスのようなストア派の哲学者(彼は奴隷の身分から解放された人でもありました)の本と並べて、ときどき読み返してゆきたいな、と思います。


■書誌


発行:2013年11月1日
版元:朝日出版社
装幀:鈴木成一デザイン室
装画:大竹守
DTP:濱井信作(compose)
企画・編集協力:赤井茂樹
編集担当:鈴木久仁子
定価:1600円+税
頁数:358


■リンク


朝日出版社 > 末井昭『自殺』
 http://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255007502/


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 http://deco-tokyo.com/sueiakira/sueiakira.html