本のしぶとさ

次に刊行する予定の『夏目漱石『文学論』論(仮題)』(幻戯書房)の作業も大詰めで、目下は同書の附録としてつける「『文学論』110年の読解」という文書をこしらえている。

これは、1907年に『文学論』が刊行されて以来、同書について誰がどのような評価をしたのかをできるだけ集めて並べてみようというもの。『文学論』は毀誉褒貶も激しく、名だたる批評家たちから「あれは駄目だね」と言われてきた本でもある(褒めた人もある)。

『文学論』について本を書こうという話が持ち上がった4年ほど前に、他のみなさんは同書をどう読んだのだろうかと思って目につくものを集め読んでみたことがあった。

目下の作業も、大半は3、4年前の自分のおかげで、本やファイルを手にとれば(画面に表示すれば)、付箋などを伝ってページを開き、余白への書き込みによって「ここ」というのが分かるようになっている。思えば当時のわたくしは勤勉だった。

それはともかく、そうはいっても漱石については、まさしく汗牛充棟。関連する論文と本を全部集めたら4桁で収まっているのだろうかと思うほどある。

その中から『文学論』についてなにかを述べている人のリストをつくってみると、だんだんそこにまだ名を挙げていない人でも、この人はなにか言っていてもおかしくないよなあと思いつき、そのつもりで探ってみると、果たしてコメントしていた、ということも少なくない。

つい先日もそんなふうにして、「あれ? 前田愛はなにか言っていないのかな」と思って書棚から『増補 文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫)を取りだしてぱらぱらとページを繰ってみた。

f:id:yakumoizuru:20170926020158j:plain

(表紙を飾るのは、つい先日まで展覧会が催されていたアルチンボルド)

 

人間の体はよくできたもので、「いま、この言葉を探しているんだよ」と意識しておいてから本をばーっとめくっていくと、眼(と脳)が半ば勝手に「ほら、そこ!」と見つけてくるようにできている(これほんと)。

そのようにして数カ所に『文学論』を見つけてみると、過去にこれを読んだ私は、当該箇所に線を引き、コメントを書き込んでいた。

といっても、ほとんど何も覚えていない。自分でも驚くほどに。

もともと記憶力がよくないことを差し引いても無理はない。私はどうやらこの本を20年前に読んだようなのだ。

ただ、随分熱心に読んだようで、全篇にわたって結構書き込みがある。

f:id:yakumoizuru:20170926020300j:plain

ちょうど『本の雑誌』で「マルジナリアでつかまえて」という連載を始めたところで、自分の書き込みも、ついそういう眼で見てしまう。

 

上の写真は文学論とは関係のない箇所だが、このページを読んで「迷宮」と「迷路」の違いが気になり、関連する本を何冊か読んだのを思いだした。その際調べ読んだ迷宮/迷路のことについては、後に専門学校や大学で講義をするようになってから、何度か講義で話したこともあった、ということも思い出す。

それにしても、この本に書き込みをしながら読んだ20年前のわたしは、まさか20年後のわたしがそれを読んで、「ほほう」などと言ったりするとは想像だにしていなかったに違いない。

本というのはなかなかしぶといもので、捨てたりしなければ、10年、20年くらいは平気で維持されるものだ、ということもこの際強調しておきたい。なにを言っているかというと、10年前、20年前にコンピュータでつくったデータは、いまどこにあるかも分からず、正しく開けるかも分からない。めれめれである。それと比べれば本は相当しぶとい。

 

本当は、ここに書かれている迷路について書こうと思っていたことがあったのだけれど、日がな一日漱石論の山と首っ引きで書誌を整理していた疲れが出てきたようだ。次の機会に譲ることにしよう。