『文学問題(F+f)+』の書評

『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)の刊行から1カ月ほどが経ちました。

毎度のことながら、ナウなヤングにバカウケという類の本ではないので、ネット上にコメントが飛び交うということもない代わりに、いくつかのうれしい書評もいただいています。

一つは、Amazon.co.jpでのカスタマーレビューに荒木優太さんによるコメントが投稿されております。同書の意図を的確に評していただいたあとに、次のようにも書いてくださっています。

ところで、著者の山本は、ツールを揃える仕事というか、スタートアップの準備というか、狩りの前に爪を研ぐというか、要するに何かの条件を整えることに毎回集中しているようにみえるのだけど、つまり、この本に沿っていえばf(情緒)をできるだけ抑制しようとしているようにみえるのだけど、これからもその方向でいくのだろうか。いってもいいしそうでなくてもいいのだけれど、器を仕上げる仕事ばかりでたまには中身を盛り付けたいみたいなフラストレーションとか溜まらないのだろうか。山本貴光が栗原康みたいなfのデカ盛りみたいな文章書いたら、それはそれで興味深い……かな?

 これもまたよく観察していただいており恐縮です。このところ「文体」「学術」「文学」といった概念の確認作業をテーマにして、それぞれ『文体の科学』『「百学連環」を読む』『文学問題(F+f)+』という本にしてきたのでした。これは荒木さんが言うように、条件の確認・整理の仕事であります。

情緒(f)を抑制した書き方については、ときどき編集者からもご指摘をいただくので、そう感じる読み手も少なくないのかもしれません。原稿について「もうちょっとご自分を出して」なんて言われたりすることもあります。

どちらかというと、情緒とは、ことさら出そうとしなくても、文章ににじみ出てしまうものだ、と思ったりもするのですが、読者が著者の人となりを楽しみたいような類の文章の場合には、もそっと出すのがよいでしょうね。というので最近『本の雑誌』で連載している「マルジナリアでつかまえて」や、吉川浩満君との連載対談などではそのようにしております。

そういえば、これを書きながら、子どもの頃から感情があまり顔に出ないと言われ続けてきたのを思い出しましたわん。

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(松本大洋『ピンポン』より)

 

また、12月23日(土)の「日本経済新聞」の書評欄に、佐々木敦さんによる書評が掲載されました。

書名からは必ずしも判然としない拙著の内容と構成を丁寧に紹介して、次のように位置づけてくださっています。

「文芸評論」とも「文学研究」とも異なるユニークな立ち位置の本だ。著者の専門の一つでもあるコンピュータのソフトウェア解説書と同様の姿勢と文体で書かれた、使える「文学論」の登場である。

(「日本経済新聞」2017年12月23日)

『文学問題(F+f)+』では、どちらかというと属人的で職人芸的な面をもつ批評(価値づけ)とは別の仕方で、誰であってもこのように文学を捉えてみることができるという理論について書いた点をこのように評していただけたのだと思います。ありがとうございました。

なお、Amazon.co.jpでは品切れ中ですが(2017.12.25 19:20現在)、版元や書店店頭には在庫がございます。

荒木優太さんは『貧しい出版者 政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)を、佐々木敦さんは『新しい小説のために』(講談社)をそれぞれ上梓されたところでありました。

 

文学問題(F+f)+

文学問題(F+f)+