★絓秀実「「少女」とは誰か?――吉本隆明論」(『JUNKの逆襲』、作品社、2003/12、amazon.co.jp

近代文学における「少女」的なものの発見=発明は、北村透谷島崎藤村らの、いわゆる「文学界グループ」によって、「恋愛の発明=発見」から分岐してなされたと見なして大過あるまい。すでに多くの者が指摘しているように、自由民権運動の「挫折」の代償に、透谷が「人生の秘鑰」としての恋愛を見いだした時、「少女」的なものの発見=発明も準備されたといってよい。そして、吉本隆明はその批評家としての出発を、北村透谷を論じることで開始したと言っても間違いない。そのような意味において、「少女」は革命の代補たる恋愛の、そのまた「秘鑰」であるといえよう。
「「少女」が「革命」の代補(の代補)たりうると思われた所以は、その存在が性的にもキャラクター的にもイノセントであること、同時に、進歩的かつモダンであることの二重性に拠っている。資本制による「故郷喪失」は、あくまで無垢な「革命」によって回復されねばならず、貧困や飢餓は資本制の「進歩」によって克服されねばならないというパラドックスを、一身に体現しているのが「少女」だったわけである」