★絓秀実(すが秀美)『JUNKの逆襲』作品社、2003/12、
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以下は同書に収録されている「「少女」とは誰か?――吉本隆明論」からの引用。

このように見てくれば、野溝的「少女」をとりあえずの濫觴とするいわゆるモダンでイノセントな存在とは、「大逆」事件以降の時代にふさわしい、言ってみれば「大正」的なものであり、「革命」に随伴するように見えながら、実は反革命的な表象――男たちによって都合よく捏造されたイメージ――に過ぎないことが改めて明らかとなる。(……)「少女」の進歩的モダニティーとは、イノセントであるかぎりにおいて許される「かわいい」ものに過ぎないし、吉本隆明の詩作品における特権的なイメージたる「少女」も、そこに収まる。吉本の詩のイメージにあっては、「少女」は革命されるべき否定的な世界のなかで、ほとんど唯一イノセントな存在として表象される。

だとすれば「少女」はたまたま天皇に似ているというわけではなく、むしろ、「天皇」をモデルとして造形されたイメージであると見なすべきである。それは享楽へと不断にひとを使嗾しながらも、それを必ず裏切ることによって無垢であり続ける、したたかな近代的装置だと言えよう。近代日本における「少女」の誕生期に立会いながらも、菅野すが子が「少女」たることを徹底的に拒否したのはそのためだし、そこに彼女の「大逆」を見ることができる。あるいは、思想家としての吉本隆明を最大限に評価する大塚英志が、天皇制の存続なくしては戦後民主主義が維持できないと考えるのも、その意味でまったく正しいのである。

ともあれ、吉本隆明の「少女」は、吉本隆明にとっても一九四五年の敗戦が、思想において何ら切断をもたらさなかったことを告げている。あるいは、吉本における一九四五年の切断とは、天皇が「少女」と呼びかえられたことあdったと言えようか。吉本の戦後思想としてのリアリティーは、「少女」の一語に象徴されていると言ってよい。奇妙なことに、「文学者」の戦争責任について、あれだけ苛烈に追求した吉本は、天皇自身のそれについては、ほとんど何も言っていないに等しいのである。