『二十歳の死』(La vie des morts, フランス, 52min, 1991, amazon.co.jp


監督・脚本=アルノー・デプレシャン/撮影=エリック・ゴティエ/出演=ティボー・ド・モンタランベール+ロジェ・レボヴィッチ+エマニュエル・サランジュほか


若干二十歳の青年パトリックが自らの頭部に散弾銃を打ち込んで自殺を図った。一命はとりとめたものの予断は許されない状況で、いつ死ぬかもわからない。


――といっても映画の画面にパトリックは一度もあらわれない(頭部のレントゲン写真として登場することはあっても)。


かわりに何が映されるのかといえば、青年の身を案じてマクギリス家に集まる親類たち(いとこたち、その親たち)の言動。パトリックがなぜ自殺を試みたのかもわからないまま――というよりもそれは当人が「理由」を物語らないかぎりつねに推測でしかないわけだけれど。


二十人近くのひとがいて、それだけでも十分にわけがわからない複雑な状態。こんなおりに近すぎもせず遠すぎもしない人間が集まると醸成される、どこかしら不安定な空気。そのなかをカメラはまるで「つぎは誰なんだい?」とでも言いたげに顔から顔へ移動する(集ったひとびとのあいだでボードレールの朗読がリレーされるのもまた人の死を示唆しているようでもある)。


少しだけ日常から遊離した時間のなかで、そこに集った誰もが死を意識しながらもおどけたり心配をしたりしている。ほんとうはすこしだけたのしんでいるようにも見える。


そんな彼/彼女たちもまた映画のどの時点において死んでしまってもおかしくはないはかない存在にみえる。


邦題では「二十歳の死」というふうに、(画面には)不在の青年パトリックの死に焦点を当ててしまっているけれど、ここはむしろ原題が含意しているにちがいない死すべき者たちの生/死者たちの生のほうに寄せて邦題を付したほうが適切だったのではないだろうか。


デプレシャンは、死とわたしたちのあいだにある距離をとても的確かつ冷静に描いている、と思う。観るつどに、死について考えていることが揺るがせられる。


そういえば、上で触れたレムの『ソラリス』もまた、死者たちの生をめぐるすぐれた小説で(も)あった。