『天使の恍惚』(90min, 1972)



互いを「十月」とか「秋」などの暗号名で呼び合う革命軍事組織「四季協会」の活動が描かれる。


この組織の構成は、「一年」を頂点として四季の司令官(春・夏・秋・冬)がおり、それぞれの季節のしたに三ヶ月ずつの隊長が所属している。さらに各月の下には月曜から日曜までの革命戦士がいる。これは、ルイ=オーギュスト・ブランキ(Louis-Auguste Blanqui, 1805-1881)が組織した「四季の会」をモデルにした組織なのだろう。


中心的な登場人物は、「秋」とその下に統括されている「十月」。十月とその部下(月曜〜日曜)は武力闘争のための武器を米軍基地から盗み出し、攻勢に出ようとするのだが上官である秋に制止される。そして盗んだ武器は冬軍団の二月に奪われ、上からも解散して他の部隊へ統合せよと迫られ孤立してゆく十月。武器もなく孤立した彼/彼女たちの葛藤のゆくえに映画は焦点をあてる。


いまこの映画を1960年代から1970年代はじめの新左翼運動という文脈(予備知識)抜きで観ると、この革命組織がなんのために反体制闘争を行っているのか、どのような現状が彼/彼女たちを武力闘争にまで駆り立てたのか、という動機が見えてこない*1。劇中、おりおりに、爆発事件を報じる新聞記事の見出しや交番が襲撃されたことがほのめかされ、四季協会のメンバーたちもピース缶爆弾やミルク缶爆弾で街のそこかしこを爆破している様子が知らされるものの、闘争相手である敵の姿だけはついに明示されないのだ。だから、彼らが爆弾で目標を破壊しても、そのことで何が変わり、何が達成されたのかはわからない。漠然とした反体制、漠然とした革命(そもそも革命とは何だろうか?)のイメージだけが伝わってくる。


十月たちの闘志の源泉、打ち倒すべき敵。それはわざわざ描くまでもないこととして排除されているのか。あるいは、敵(とはつまり達成すべき目標)の見えなさと、運動(アクション)を起こしても世界は変わらない、けれども動かずにはおれないという焦燥感をこそ表現しようとしていたのか。両方であるようにも思えるのだけれど、その前に自分の無知無教養をなんとかせねば。orz


最後に余談になるのだけれど、映画のそこかしこに入るセックス描写も面白い。男女が抱き合いながら革命運動談義をする様子は、いま観るとほとんどギャグのようだ(悪いくせですぐモンティ・パイソンを想起してしまう。そういえば両者はほぼ同時代だ)。観客へのサーヴィスのためにいれているけれど、作り手としては会話のほうが重要よ、という底意地が見えていて、すこしもエロティックではない。


そうしたことも含めてこの作品が公開当時(1972年)、どのように受け止められたのかが気になる。調べてみよう。


⇒日本映画データベース > 『天使の恍惚』
 http://www.jmdb.ne.jp/1972/cv000700.htm


⇒IMAGE FORUM > 若松孝二
 http://www.imageforum.co.jp/wakamatsu/
 略歴やフィルモグラフィー、現在購入できるヴィデオ作品の情報など。


⇒Louis-Auguste Blanqui Archive
 http://www.marxists.org/reference/archive/blanqui/

*1:実をいえば、新左翼運動についても、それが具体的にどのような動機に促されて興ったのか、なぜ人はかくも熱狂したのか、という動機が自分には判然としていない。