ユリイカ第37巻第12号、2005年11月(青土社amazon.co.jp


◆1:文化系・女子・カタログ


批評にはいまだ広大な未開拓の領野が残されている。もっとも批評という言葉でその人が何を思うかによってその領野の広さもちがってくるのであって、たとえば批評といえばそりゃあ文芸批評だろうとハナから決めてかかっている向きには、それ以外の対象が批評されるということに違和感があるかもしれないし、批評といえば既成の文壇・論壇・業界・制度のメンバーが取り扱う範囲が対象だと考える向きにとってはそこからはみ出すものが批評の俎上にのせられることに違和を感じるかもしれない。


——などとややこしいことを言うのは、ネット上でときどき「ユリイカは詩の雑誌なのにどうしてブログやらオタクやら特集するんだ」といった類いの不満を目にするからだ。



しかし同誌(第二次ユリイカ)は「詩と批評」の雑誌。1969年の再創刊直後、まだ特集スタイルが存在しなかった一年はまだしも二年目からの特集テーマを眺めてゆけばわかるように、批評の対象として詩や小説はもちろんのこと、映画、音楽、演劇、美術、建築、漫画、アニメ、セクシュアリティ、日本語、カルチャー、道化、猫(!)、ホモセクシュアル、神話、妖怪、喫茶店、都市といった実に雑多なテーマを選びつづけてきている(たとえば青土社 図書目録 2005』、123-129ページを参照)。


私もまだ全号をすべて読んだわけではないので偉そうなことは言えないのだが、同誌が編集部を代謝させながら37年に及んで持続させてきた軌跡の一部を見た限り少なくとも言えることは、「これが批評の対象としてOKな範囲だ」という思い込みや限定を轟然と破壊しながら突き進むのがユリイカの提示する批評というものだろうということだ。「われ発見せり!(エウレカ!)」という誌名は伊達ではない。


⇒book cafe 火星の庭 > ふたつの『ユリイカ
 http://www.kaseinoniwa.com/cafe/eureka/rensai.html


むしろ対象の得体が知れなければ知れないほど批評の甲斐があるというもの。あるいは得体が知れていると思い込まれているものの得体を改めて明かすことも甲斐のあることだ。


ときに。世の中に得体の知れないものは数あれど、文化系女子ほど得たいの知れないものも少ない*1



「文化系」などといえばまた曖昧模糊とするのだが、さしあたっては〈文化のある領域に深くはまりこみ、それなしでは生きていけないという状態/常態にある者〉を「文化系」の人と呼ぶとしよう。ここで間違ってはいけないのは、文化系とは理系と対立するような分類基準ではないということだ(文系/理科系という学問の分類は妥当だとしても)。仮に理系女子という分類にはいる人がいたとしても、彼女は同時に文化系女子でもありえる。


というよりも、「だからその文化というやつが曖昧なんじゃないか」ということが問題になるわけだが、これもここではそう複雑に考えなくてよいだろう。それこそ生命維持に必要な最低限以上の営為全般をさしあたり「文化」と呼んでおいてよいのではないかと思う*2。文化とはあらかじめ定義されるというよりは、人が何かをしているのに出会うなかで、「おお、そんな営為もあるのですか!」と発見されるたびにカタログにどんどん追記されていく類いのことだと言ってもよい。だから大部分の人間にとって未聞の営為や領域に向かう人は前衛(アヴァンギャルド)なンである。といっても文化という問題についてはそれだけで相当の議論と学的な蓄積があるので、あまり駄法螺を吹きすぎてもいけないのだが、同特集を読むためにはとりあえず上記のような心構えでまずは十分だと思う。



もう一方の「女子」という言葉もまた面妖なのだが、これについては後に述べてみたい。


こう考えると、本特集に集められた多彩な顔ぶれとその文化の領域も、自ずとある偏りをもっていることが見えてくる。急いで付け加えれば「偏り=よくない」という議論ではない。もし文化という言葉を上記のようにとれば、どうしたって偏る。偏っているのが常態だ。むしろその偏り具合から、編者の文化観が垣間見えてくるし、文化の具体的な営為自体はいつだって何かを偏愛することに基礎を置いていはしまいか。以下、本特集の内容を見てみよう。




◆2:文化系女子のたしなみ——女の子はしゃぼん玉?



特集の掉尾を飾る堀越英美氏による年表「花咲く乙女たちの文化年表——ミーハーと成熟のはざまで」は、本特集の提示する文化観の傾向と範囲を示す貴重な資料。「文化系女子ってなんやねん?」と疑問をおもちのあなたは、まずこの年表の熟読からとりくんでもよいかもしれない。その際、もしお持ちなら同誌2005年8月臨時増刊号「オタクvsサブカル」青土社amazon.co.jp)所載のオクダケンゴ氏による年表「平成大赦(仮)サブカルチャー年表」と並べながら読むとなおよいだろう。


⇒作品メモランダム > 2005/08/08 > 仁義なき戦い——オタクvsサブカル
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050808



不可能な理想を言えば、執筆者一人ひとりの文化観を反映した年表がそれぞれにあるはずで、それを相互に比較できたらおもしろい。これがコンピュータのソフトウェアなら、各執筆者に作成してもらった個人文化年表を相互に重ねてそれぞれの傾向の違いを見たりするところだ(といっても堀越氏によるこの年表には、本特集の執筆者たちが言及する対象の多くがきちんと含まれているようだ)。それはともかく、1946年の装苑文化服装学院出版部)復刊から2005年の『メガネ男子』(アスペクト、2005/09、amazon.co.jp)刊行にいたるこの年表を読むことで、「ああ、こういうアイテムや出来事が含まれるのか」とか「どうしてこれが?」という理解と違和が萌すと思う。


文化出版局
 http://books.bunka.ac.jp/indexf.html


さらに野中モモ氏(id:Tigerlily)、浜名恵美子氏、平山亜佐子氏、堀越英美氏(http://www14.big.or.jp/%7Eonmars/)による「徹底討論 女の文化ケモノ道」で、彼女たちの具体的な文化摂取経験を追ってみれば、愛読した雑誌から漫画、好きなアニメ、萌えのポイント、自意識の問題まで、その辺の女性雑誌をそのつもりで読んでいてもなかなかお目にかかれない議論が展開されている。固有名などについては丁寧な註もつけられているので、「俺/私、女子文化ってぜんぜんわかんないんだよね」というあなたも大丈夫。また、四名の論者の文化摂取履歴がカルテのように一ページずつ添付されているのも本特集を理解するうえで貴重な資料となっている(できれば今後は執筆者の性別属性にかかわらずこのようなカルテを一枚ずつ添付していただけないだろうか?)。

堀越 (……)男の子の萌えに比べて女の子の萌えはわかりにくいから合わせづらいっていうのもあるんじゃないですか? 「女は得体がしれないよ」って、私が男だったら思うな(一同頷く)。何に萌えるのかわからないから。

堀越 (……)女子の欲望の得体のしれなさが今度の『ユリイカ』で少しでも解明できればいいなと。

(「徹底討論 女の文化ケモノ道」より)


そう、文化とは欲望の問題だ。文化とは、まずもって個々人が(先に述べた広義の)文化の中のどこにどのように魅了されるのか、どのようにそこへ関わっていくのかというミクロな経験の次元にある(もちろん同時に社会政治経済にかかわるマクロな次元もある)。だから「文化系女子」の問題を、「文化に関心をもつ女子の欲望の所在とそのあり方」と読み換えてもよいと思う。こう言い換えてみると、文化の各種様態を批評の俎上にのせてきたユリイカが、オタクやサブカルや女子という文化を享受する側の欲望に着目していることはなにやら興味深い。



『文学部をめぐる病——教養主義ナチス旧制高校松籟社、2001/06、amazon.co.jp)や『グロテスクな教養』(ちくま新書、筑摩書房、2005/06、amazon.co.jp)といった著作によって、男子系文化帝国の衰亡を考察してきた高田里惠子氏の論考コレラ菌的考察——男子系文化の衰弱と文化系女子の台頭」は、さすがにその機微を鋭く見抜いている。アカデミズムという制度の外で知的な問題を扱ってきたユリイカも——

「詩人、批評家、外国文学者」でもある大学教師が編集に協力して、適当に若い院生たちや研究者たちを動員してきたなと感じさせるものがすくなくなった、と改めて思う。目次を眺めていると、特集や論考の内容よりも、その成立事情と人脈を邪推したくなるような知識社会学的(?)楽しみを与えてもらえる、などということが、ほとんどなくなったのである。


大学における制度的営みから決別しているように見えて(中略)、実は「学校的なもの」=西洋的「男子系文化」と結託しているという在り様が、『ユリイカ』から消えつつある。今回の特集企画は、その極限の姿をすすんで示そうとする自虐的試みなのだ(と勝手に決めつけてみた)。

(「コレラ菌的考察——男子系文化の衰弱と文化系女子の台頭」より)



口幅ったく言えば、それは文化のニヒリズム(価値崩壊)を一度は徹底することで、ニヒリズム自体の底を確認し、次なる萌しへと眼を向けるための作業でもあるのではなかろうか。ここのところのサブカルチャー押井守宮崎駿、ギャグまんが、西尾維新、ブログ、小劇場、オタクvsサブカル、水木しげる攻殻機動隊)や制度・作法(論文作法、文学賞、翻訳作法、雑誌の黄金時代)への目配せは、そうした文化の価値崩壊時代の廃墟をさまざまに測量する試みなのではないかと受け取っている。もちろん、自分(たち)の置かれた状況をよくよく確認し、そのような状況に至った経緯(歴史)をわきまえることは、反転のための必要不可欠な作業でもある(もちろんそのまま没落という可能性も考えられるわけだが)。


⇒作品メモランダム > 2005/06/09 > 人はなぜ人文書を読むのか?
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050609/p1


⇒ありさとの蔵 > 『ユリイカ 詩と批評』特集一覧
 http://alisato.parfait.ne.jp/book/eureka/



◆3:「女の子はわがままだ よくわからない生き物だ」*3


改めて目次を眺めると、そこには「人文系」「アート系」「音楽系?」「オタク系+α」「萌えとお笑いのゆくえ」という分類が施されていることに気づく。先に「文化」という言葉についてかなりゆるい規定をしたが、この分類を見るとここでの「文化」が、学問、文学、美術、音楽、漫画、アニメ、ゲーム、お笑い、アイドル、メガネ男子といった文物から成ることがわかる。このことについては後で各論考についてコメントする機会があればもう少し詳しく検討してみたい。



目次をもう少し眺めると、「女子」「少女」「おかん」「女」「ギャル」「女の子」「乙女」といった女性のさまざまな様態〔モード〕を名指す言葉が散見されることにも気づく。「文化系女子」という場合の「女子」とは何か、という問題を考えてみなければならない。


吉田アミ氏(id:amiyoshida)による「美しき穉き少女に始まる文化系女子攻略徹底ガイド付き戦記」がこの問題に迫っている。


「女の子は複雑すぎてわからない謎めく不思議な存在だから」と自身もまた抱えているというこのわからなさを糧にいっそ女の子を研究してしまおうという論考。女の子がどのようにして未生の存在(未だなにとも知れぬ存在)から女の子に成る/成らざるを得ないのか、そのときどのような筋道を辿りうるのかということを、「少年」「少女」「女の子」「乙女」という在り方に着目している。



それは「〈欲望されない身体〉から〈欲望される身体〉へ」という自分には制御しがたい要素によって否応なく他人との関係に巻き込まれてゆく女性が辿りゆく変身の過程を追うことでもある。論考は、自らの女性性への自覚が目覚めない未生の存在である「少年の時代」から「少女の時代」へ、女性性の自覚が(否応なく)芽生えた後は「女」であり「子」でもあるという矛盾に満ちたダブルミーニングを自在に使い分ける「女子の時代」、(誰のどのような欲望によってモデル化されたのかわからないけれど)「これが乙女というものだ」という属性から演繹的に構成できるために擬態可能な「乙女」というあり方までを順に検討にかけてゆく。以上を考察した後に、吉田アミ氏はこう問いかける。

諸君! きみたちが攻略すべき〈女〉はどの種族?
正直に言おう。
私はこの3種族の女が全部、怖い。恐ろしいのだ。

(「美しき穉き少女に始まる文化系女子攻略徹底ガイド付き戦」より)


「女の子」を「女の子」とは異なる場所から探究する吉田氏は、こう述べた後、返す刀で理想(空想)の女の子を思い描く男の子をも対象化する。そうは言っても女性である自分。けれども女の子でも男の子でもない、そんな「私」はどこへ行ったらよいというのか?! この息苦しさの向こうには何がある?



重い荷物を背負うらくだがやがて自らの脚で立つ獅子となり、最後にあらゆる分類、あらゆる規定から自由な幼児となる——そんな寓話を思い出しながら吉田氏の文章を心強く読む。「欲望を止めるなよ/コンクリートなんかかち割ってしまえよ」*4——「美しき穉き少女に始まる文化系女子攻略徹底ガイド付き戦記」にも引用されていたくるりの歌「男の子と女の子」の続きが脳裡に流れる。男のクセに何がわかると言われても、無責任と言われても、そんなエールを送りたい。ちなみに吉田氏のこの文章、私の脳裡ではひとつの演劇のようにして脳裡で再生された。短い映画に撮ってもステキだろう。


さて、いよいよ文化系女子の花園(ジャングル?)に足を踏み入れてみよう。(以下、後篇に続く)


⇒日日ノ日キ
 http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/


青土社 > 『ユリイカ』 > 2005年11月号
 http://www.seidosha.co.jp/eureka/200511/




【追記】
・誤字修正で数度更新しています。
 idを引用させていただいた方、トラックバック複数回送られてしまっていたらスミマセン。

*1:少なくとも私にとっては

*2:もちろん、生命維持に必要なことがらもさまざまな工夫が凝らされることで文化になっている。たとえば食・文化とか

*3:くるり「男の子と女の子」より。ハナレグミによるカヴァー「帰ってから歌いたくなってもいいようにと思ったのだ。」収録のヴァージョンをおすすめしたい。

*4:くるり「男との子と女の子」より。