*2010/09/02 AM01:55 若干字句を訂正し、末尾にリンクを追記しました。
電子書籍を巡る議論を見ていて、これは「記憶」ということをどう考えるか/考えないか、という態度の違いを映し出す出来事ではないか、と思う。
私自身は、電子書籍も従来の書籍も、使えるのであれば、どちらも使いたい。ただし、電子書籍があれば、紙の書籍は不要だとは考えない。両者を使い込んできた経験から言うと、これらの二つの書籍は、名前の上では書籍だが、まったく別のものだからだ。
不用意にこんなことを言うと、「お前さんは、本まみれになって、紙の本へのフェティシズムがあるからだろう」とか、「習慣として紙の本に馴染んできたからだろう」と言われるかもしれない。そんな理由であれば、話は簡単だし、私も困らないのだが、残念ながらそうではない。ことはもっと複雑である。
私の話をしてもしょうがないけれど、ご参考までに言うと、私自身は、子どもの頃から紙の本に文字通り囲まれて暮らしてきた。同時に、もう四半世紀以上、コンピュータでものを読み書きしたり、プログラムをこしらえてきたヘヴィ・ユーザーである。昨年は、Amazon Kindleの海外販売が始まると同時に手に入れて使っている。つまり、紙も電子もともにありがたく使っていて、どちらがいいとか悪いといったことは感じていない。どちらもあるのがいいと考えているユーザーだ。
さて、そんな前置きはともかくとして、紙の書籍と電子書籍はどこが違うのか。簡単に言って、記憶への働きかけ方が違う。もうこれは全然違う。
コンピュータを使った電子書籍では、書籍そのものはデータの塊(0と1の塊)として存在している。そして、データの塊そのものは、そのままでは見ることができない。それはどこにあるのか。コンピュータの外部記憶装置などに保存されている。そして、ユーザーが、当該書籍を読もうと思って、装置上に呼び出したとき、そのときだけ外部記憶装置上に置かれたデータが、読書装置のディスプレイ上に、文字として表示される。
という次第は、コンピュータでの読書を含めたなんらかの電子書籍を利用したことがあれば、当たり前のことに過ぎない。しかし、この当たり前の仕組みが、紙の書物とは異なる読書の体験をユーザーに提供している。つまり、電子書籍では、電気で作動する装置に表示されたときにだけ、その電子書籍は目に見える形で存在する。
他方で、紙の書籍はどうか。人によってさまざまだが、多くの場合、書棚のような場所に整理されて置かれている。私の場合で言えば、部屋の四面が書棚になっていて、そこに哲学、文学、物理、美術、映画、建築といった分野や、中公文庫、ちくま文庫、叢書ウニベルシタスといった叢書ごとに、あるいは作家ごとにまとめて置かれている。そして、そのような書棚の中に仕事机があり、コンピュータがあり、この文章もそうした場所で入力している。
当然のことながら、机から左を見れば、『ユリイカ』『現代思想』『批評空間』『Any』といった雑誌・書籍ばかりが背を見せている棚が目に入り、正面を見れば、『ハイデッガー全集』『キケロー選集』『マキァヴェッリ全集』『ベンヤミン著作集』、各種聖書などが入った書棚が見える。机には、目下取り組んでいる原稿で参照している書物が50冊ほど積み上がり、手近な書棚には各種事典が収まっている……。
何を言いたいのか。紙の書物は、置いた場所にある。当たり前だ。しかし、この当たり前のことを、もう少しだけよく考えてみると、まったく当たり前とも言い切れない事態が見えてくる。
家にいるとき、毎日この部屋で仕事をしている私は、いやでも意識しなくても、机を囲む書物を目にしている。現に目の前には、『思想』『彷書月刊』『nature』『図書』『Journal of History of Ideas』『中央公論』『装苑』『美術手帖』……と、雑誌の最新号が積み上がっている。
斜め前方にある岩波文庫を収めた棚から、『明六雑誌』とユクスキュルの『生物から見た世界』が抜けている。用事があって抜き出したからだ。河上肇、宮崎市定、大杉栄、野呂栄太郎、荒畑寒村、南方熊楠……と、番号順に並べた文庫の上に、そういえば読みさしの和辻哲郎『倫理学(四)』が寝かせてある。
仕事の手を休めて顔をあげると、少し前に茂木さんと斎藤さんの『脳と心――クオリアをめぐる脳科学者と精神科医の対話』(双風舎、2010/08、ISBN:4902465175)の作業で使ったフロイト、ラカン、精神分析、脳科学の本が、まだ元の書棚に戻されないまま山になっているのが見える。
なんだ、お前さんの片付かない部屋の話かと言うなかれ。いま述べたかったのは、こうした環境の中で日々暮らすということは、このようにモノとして存在する書物から、意識的・無意識的に触発され続けている、ということだった。コンピュータ風に言えば、記憶を上書きされ続けているのである。ところで、同じことを電子書籍で行うのは難しい。
もちろん、読書装置の画面で、書棚を表示してみることはできるだろうし、本のリストも見える。しかし、それは、ユーザーが自らそうしようと思い、装置をそのように操作した場合にだけ生じることだ。電気を入れても入れなくても、こっちがお茶を飲んでいようと、原稿に没頭していようと、そこに書物があり続けるのとは、ちょっとわけが違う。言い直せば、物質としての書物は、人間を取り囲む物理環境でもある。どうしたって、使い手の記憶のあり方との関わり方は、電子書籍と紙の書籍では違ってくる。
注意していただきたいのは、紙の書籍はよくて、電子書籍はダメといった単純なことを申しあげているわけではない、ということだ。冒頭述べたように、私はどちらも必要とするユーザーである。ここでは、「記憶」の観点から、紙の書籍と電子書籍はどこがどう違うのかということを考えてみたいと思った次第。いま述べたのはその一例で、いわば「物質と記憶」の関係をめぐる書籍の見方には、なおいくつかの検討すべきことがあると思う。それは別のエントリーで記すことにしたい。
電子書籍があれば、紙の書籍は不要であるという議論では、上記のような(あるいはこれから述べてゆくような)それを使う人間の記憶のあり方という観点がすっぽり抜け落ちているように思う。なんとなれば、そうでなければ、両者を同じものとして扱うことは、とうていできないはずだからだ。つまり、両者の違いを疎かにするということは、使い手の記憶のあり方について考えないということなのではないか、という疑念を懐いているのである。
(つづく)
⇒哲劇メモ > [随想] プッシュ・メディアとしての本
http://d.hatena.ne.jp/clinamen/20100901/p1
相棒・吉川浩満の随想。そうそう、「プッシュ・メディア」と言えば話が早いよね。