手段を複数化すること


最近、当はてなダイアリーへのアクセスにしばしば失敗するということが続いています。私が使っているブラウザ(Google Chrome)との相性などの問題かもしれませんが、以前には見なかったほど、よくアクセスに失敗するのです。自分のブログながら、自分で自由自在に見られないのは、いささか不便なものでありますね。ものごとが普段通りスムースにいかなくなると、いろいろなことを考えさせられます。


クラウド・サーヴィス、要するに、自分の手もとのコンピュータではなく、ネット上のどこか知らない場所にあるコンピュータに自分の各種データを置いてもらって利用するサーヴィスは、どこからでもアクセスできるし、自分のコンピュータが破損してもデータが無事であるという利便性がある反面、肝心のネットにアクセスできなくなった途端に自分のデータであるにもかかわらず利用できないという潜在的な問題もあるわけです。


と、そんなことは当たり前のことではありますが、日ごろ問題なく便利に使っているときには、そうした心配をすることも少ないもので、まったく現金なものであります。自分のコンピュータにしても、ハードディスクその他の記憶装置が壊れてしまえば、中に入っている過去の原稿やメールやプログラムも失われるわけですから、ここは一つ初心に返って定期バックアップをしたいところ。


しかしながら、長引く原発事故と電力供給問題をきっかけに、さらにもう一歩進めて考えさせられもします。つまり、改めて「コンピュータ、電気なければただの箱」ということを噛みしめもするわけなのです。それは、外出時にバッテリーの切れてしまったノートPCや携帯電話をもてあましたことがある人であれば、何度となく実感しているところでもありましょう。実際問題として、電気を自由自在に使えない状況が生じた場合、電気の供給自体を気にしなくて大丈夫という前提で行っていたさまざまな事柄をどうするかということは、単なる空想としてではなく、考えてもいいことだと思う昨今です。


もっとも私自身は、コンピュータを使い倒しておきながら、(過去に遭った痛い目の記憶があるため)いま一つ信用しきっておらず、肝心なことは紙でやっています。Evernoteなどを使う一方で、日ごろの思いつきや原稿の下書きなどは、全て紙の手帖でやっています。


そんな調子ですから、書籍や雑誌などをどんどん電子化して、紙のほうを廃棄する友人などを見ていると、ついつい「もしそのハードディスクがクラッシュしたらどうするのだろう」だなんて人ごとながら心配になることもあります。そんなのは杞憂だと感じる向きもあろうかと思いますが、ゲーム開発の現場で酷使されたコンピュータが、わりと頻繁に故障するのを見ていると(そして、そうした「事故」のたびに、バックアップを取っていなかったプログラムや画像などの制作物が失われるわけです)、装置の信頼度は高まっているものの、やはり所詮は機械装置ですから、摩耗もすれば故障もすると心得ておいたほうがエエんではないかとも思う次第。ましてや電池(電気)が切れたら、そこにあってもアクセスできないとあればなおのこと。


機械装置の故障や機能不全という状況を、予め起こりうることの範囲に入れて計画を立てたり行動すること。これは、原子力発電所という最も故障して欲しくない装置によって、もう何度目かの示唆を受けているわけです。或る道具を使い始めるとき、その道具がなくなってしまったとしてもなんとかできるように備えたほうがよいことも、いろいろあろうかと思います。問題に向き合うとき、常に複数の解決手段を確保することと言ってもいいかもしれません。そういう想像力が、これからますます重要になってゆくような気がしています。


もう四半世紀以上前ですが、かつて熱心に遊んだ信長の野望(光栄、1983)〔群雄割拠時代の戦国武将となって、天下統一を目指す歴史シミュレーション・ゲーム〕で、国づくりのコマンドを実行すると、「備えあれば憂いなしですな」と言われたことを、よく思い出すのでした。