推敲はこんなふうに(のはずが)

ときどき学校などで、文章の書き方を問われたり、話したりすることがある。

おおまかに言うと、まずは書くだけ書いて、それから削って推敲するのが肝心よ、などとお話しすることが多い。

どうして「まずは書くだけ書いて」なのかというと、私が見てきた学生のなかに、「うまく書かねばならない」という思いにとらわれすぎて、結局書けないという状態に陥る人が少なくないようだと、あるとき気づいたからだった。

考えるな、書け。というのは無茶にしても、うまいこと書いたろと意識しすぎると、かえって書けないということはありえる。

そらあキミ、頭のなかで文章をきっちり組み立ててから筆を降ろしたという江藤淳のように作文できるなら世話はないさ。そんな芸当ができない私たちとしては、上手か下手かはあとまわしにして、書くだけ書ければまずは上等さね。

というわけで、まずは書くだけ書くという次第。

本当に大変なのは、そして重要なのは、そうして書くだけ書いた文章をもとに、削ったり書き換えたりする推敲のプロセスなんである。

再びいえば、学生のなかには、本や雑誌に載る文章が、よもやそんなに推敲されているとは想像していない人も少なくないようで、ならばその過程をお目にかけるのがよいかもしれないと思いつつ、これまでなかなか機会がなかった。

最近、ある本の書評を書いたのだけれど、文字数も原稿用紙にして2枚ちょっとの分量だから、推敲の過程をお見せするのにもちょうどよいのではあるまいか。と思って、普段なら用が済むと捨ててしまう途中の原稿(プリントアウト)に朱筆を入れたものを保存しておいた。

そして、最初に書いた原稿のそれぞれの箇所に対して、なぜ、なにを考えて後から朱筆を入れたのかを簡単に解説してみたらどうだろうと考えた。そうすれば、「はっはーん、結果だけ見れば、するするっと書かれているように見える文章も、こんな具合に七転八倒七転び八起きしながら書いているわけね」という次第が分かるだろう――あらましそんなふうに想像したわけである。

一度そういう文章をこしらえておけば、次から学生にも、「これを読むといろいろ分かるよ」とお伝えできるだろうし。

なんて捕らぬ狸の皮算用をしていたところ、比較的労せず仕上げられると踏んでいた、先に述べた書評原稿が、その後、文字通り七転八倒を繰り返して、最初に書いた文章の原形もとどめないような案配で書き換えられてゆき、途中、三度か四度のプリントアウトと朱筆入れを経て、つい先ほど最終形になったのだった。

こうなると、最初の草稿から、どんなプロセスを経て最終稿に至ったかを再現するだけでも一大事で、途中なにをどうしてそう書き換えたのかに至っては、自分でも全部は思い出せないに違いない。ましてや、なぜそこで「これでよし」と手を止めたのかなど。

書いてみて、自分の外に出す。出したものを眺めて考える。考えてまた書く。

基本はこの繰り返しだ。書いてみたことが意に満たないと感じたり、これではうまく通じないと想像して言葉を選び直す。文の提示順がよろしくないと書き直す。なのだが、これがどんどん繰り返されてゆくと、しまいには自分でもなにをどうしてこうなったのか、定かではなくなってゆくのである。

――というわけで、推敲の過程を見えるようにして解説を加えてみようという当初の計画はあえなく頓挫したのでありました。