目には見えないがそこにあるもの/『INOUTSIDE』について

先日、ふくだぺろ、ダヴィデ・ヴォンパク、川口隆夫による映像『INOUTSIDE』を観た。事前のプログラムでは『目に見えない呼び声』と題されていたもので、上映前に改題されたようだ。

映像は、高速道路で走る車を眺めたり並走したり道を横切ったりする男A(川口隆夫)と、河原で水に入ったり佇んだりする男B(ダヴィデ・ヴォンパク)の二つの場面を中心に構成されている。

ときおり部屋でピアノを弾く女(福田ゆみ)や、その女に頭部のマッサージを受ける男B、壁にもたれて壁を手でなでて白くなった手を見つめる男B、家の前でDJをする男C(ふくだぺろ)と傍らに立つ女と赤子と男B、彼らがいる土地の景色といったカットが挟まる。

言葉による説明はなく、場所とそこにいる人物の行動だけが提示される。タイトルの「INOUTSIDE」以外の手がかりがあるとすれば、この映像が上映された『INOUTSIDE』という一連のイヴェントという文脈だろうか。

その紹介では「ウイルスと共に生きる未来を考えるプロジェクト型作品」と記されている。このたびのCOVID-19のパンデミックが背景にある。この映像を観に来た人びとの念頭にもウイルスという言葉が置かれている。

とはいえ、いま述べたように、映像はとりたて明示的にストーリーを示したりはしない。むしろそのような形での意味を提示しないタイプの映像だ。

以下では、目と耳にしたもののうち記憶に残る断片と、それを見聞きしながら感じたかもしれないことを言葉にしてみよう。記憶違いも多々あるに違いない。いかにも頼りない覚書である。

派手な色合いの浴衣のようなものを身に付けた男Aが、暗がりで横たわっている。彼は高速道路と思われる道沿いにいる。目の前を過ぎ去る車を眺める。ガードレールに足をかけて乗る。車が通り過ぎるタイミングでジャンプする。道沿いに走る。歩く。道をわたる。戻る。

その様子を見ながら、これは本物の高速道路であり、通る車はこの撮影のことを知らないだろうと思う。つまり高速道路に俳優と撮影者がやってきて、仕組んだわけではない車の流れを前に撮影しているわけだ。

見ている私は少しひやひやする。画面では何かが起きているわけではないのに、何かが起きるかもしれない条件が揃っている。高層ビルの建設現場にわたされた細い足場に腰掛けて宙に足を投げ出している人の写真を見るときに感じるひやひやに近い。いつ落ちても不思議はない。

半ば前をはだけてだらしなく着崩した浴衣という衣装のせいか、男の不安定に見える動きのせいか、余計に危うく感じられる。カメラの前を高速で通過する鉄の塊を前にして、いかにも脆い存在に思える。

余人にはどうでもよいことだが、私は普段、道を歩いているときにも、いつ向こうからやってくる車の運転手がスマートフォンを見ながらの運転でミスをしたり心臓発作を起こしたりして車がこちらに突っ込んでくるか分からない、と想像しながら歩く類の人間である。

そういう人間にとって、男が高速道路で戯れる様子はそれだけで肝の冷えるものだ。もっとも、それがこうして上映されている以上、なにか大変なこと、事故のようなことは起きないはずだとも期待されるのだけれど。

私の脳裡では、なぜか鈴木清順の『陽炎座』が思い出された。松田優作が赤い襦袢を羽織っているのを思い出しただけかもしれない。

 

他方、河原の男Bはなにも身に付けず、そこにいて、ときどき踊りのように体を動かす。水中から空を見上げる映像があり、彼は水に潜っていたのかもしれない。

川が安全というわけではないが、高速道路との対比のせいか、男Bが裸でいるせいか、最大限に無防備である人間が、ここではさほど危険に晒されているようには見えない。むしろ古来の人類がそうしてきたであろうように、彼は体を洗ったり、流水で戯れていたのかもしれない。水は人間が生きる上でなくてはならないものでもある。

また、高速道路にいる男Aとちがい、男Bは服を着て、他の人びととも交わる様子が映される。翻って高速道路の男はただ1人、社会から疎外された人間にも見えてくる。通り過ぎる車を動かしているのは(いまのところ)人間のはずだが、暗いために運転者の姿は見えず、車だけが走っているように思える。あれらが自動運転車だとすれば、彼は人間がいなくなってしまった未来の世界を1人呆けたようにさまよう男なのかもしれない。

――などと、カットが重なるつどさまざまな連想が浮かんでは消えてゆく。

実を言えば、なにより気になったのは音だった。

これは映像外のことだが、ふくだぺろ氏が映像人類学者でもあることから、てっきりこの映像は環境音や人物が発する声の他の音を使わずに編集しているのではないかと勝手に想像していた。

実際には映像を通じて不穏な印象をもたらす音楽が流れており、これは少し意外に感じた。

BGMがついている映像に接すると、ついその意図を考えてしまう。といっても、いつでもなにか意図があるとも限らない。これは分野が違うけれど、ゲーム開発でいろいろな人と共同作業をするなかで、場面になんとなくそれっぽい音楽をつける人もいた。こういう場面ではこういう音が入るものでしょと発想する人もある。

音は映像とちがって、人が画面のどこに目を向けていようが耳に届く。そして言うなれば、半ば強制的にその人の身体と精神に働きかけ、なんらかの情動なり感情なりを喚起する。

そんなこともあり、『INOUTSIDE』ではなぜ映像に音楽を入れたのかが気になった。真意は分からない(そして分からなくてもよい)。そもそもここまで述べてきたように、明確なストーリーを伝える映像ではない。この音はなんなのか。考えているうちにどこかから思い浮かぶ(あるいはどこかから私のなかに入り込んできた)ことがあった。

ウイルスはどこにいったのか。

不意に思い浮かんだ問いに、「いや、ウイルスはそもそも映像に映らないよ」と頭のなかで自答する。映るとしたら電子顕微鏡による撮影か、なんらかのメタファーで表す外はない。

だが一方で、種類を問わずに言えば、ウイルスは空気中にも水中にも、そして私たちの体内にも無数に存在している(とはウイルス学者・武村政春氏の受け売りである)。体内・体外を問わずウイルスがいる。これは人間を中心とした見方だ。視点を換えれば、ウイルスで満ちた空間(空気中・水中)の中に人間は存在している。私たちはウイルスのなかを泳いでいるのだ(念のために言えば、人体に害をもたらすことが判明しているウイルスはその一部である)。

そうか、このカットからカットへとまたがって映像を覆っている音は、高速道路にも河原にも同じように満ちているにもかかわらず人間の眼には見えないウイルスなのだ。おそらくこの音は、男Aにも男Bにもその他どの人物にも聞こえていないだろう。映像の隅々に満ちているにも拘わらず、そこに登場する人びとには聞こえないウイルスのような音は、自然のなかだろうが、人里だろうが、高速道路だろうが、人が意識しようとしないでいようとそこにある。そして人はその中で生きている。それぞれが何をしているか、何をしたいかにも関係ない。ただそこにあり、人間がつい考えてしまうような意味はない。

これはなにかそういう状態を描いた映像なのではないか。そんなことを思い浮かべるうちにエンドクレジットが流れて会場が明るくなった。

上映後のトークでは、ふくだぺろ、ダヴィデ・ヴォンパク、川口隆夫の3氏が登壇し、来場者たちの質問に答えた。

その中で、今回上映した映像は、以前上映した『目に見えない呼び声』をもとに編集し直したものである旨も説明があった。以前のヴァージョンでは、もう少し説明的な要素もあったとのことだった。

私は、もし他に質問者がいなかったら、この上映に先立って行われたダヴィデ・ヴォンパク氏のダンスパフォーマンスで歌われた3曲について尋ねようかと考えていた。質問と応答は続き、そのうちに音について問うた人があった。

ふくだぺろ氏は、もともと音楽をつけるつもりではなかったが、今回はダヴィデ・ヴォンパク氏のアイデアで入れてみたと答えていたように記憶する。ただ、それが何を意図するのかは必ずしも明確なわけではないようだった(私がなにか聞き逃している可能性もある)。

そこで質問ではなくコメントとして、ひょっとしたらあの音楽は目には見えないものの、この映像の中にも外にもいたるところに存在しているウイルスを表したものとして観る/聴くことができるのではないかと述べた。いささか予定調和的で凡庸なコメントだが、そうではなくて……と別の見方が出たら面白いかもしれないとも思ったのだが、ほどなく時間が尽きてお開きとなった。

この映像を観たのは2021年10月23日のことで、それから2週間近くが経った。もとより私は物覚えが悪いほうで、ひどい時には映画を観たことさえ忘れてしまうこともある。だが、『INOUTSIDE』に関していえば、目にした情景のいくつかがいまだに記憶に刻まれていて、ときおり「あれはなんだったんだろう」という気分になっている。意味不明で、ストーリーや意味にすっきり回収されないもののほうに興味を惹かれるということもあるのかもしれない。念のために言えば、ここで「意味不明」とは文字通りのことであり、映像に対してはむしろ讃辞だと思って使っているのだった。

 

*文中で「男A」と「男B」を混同している箇所を修正しました。(2021.11.07)

 

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