加藤陽子先生に拙著『「百学連環」を読む』(三省堂)を書評していただきました。
ありがとうございます。
おもはゆいとは、こんなときに使ってもよい言葉だったでしょうか。おもはゆい。
⇒毎日新聞 > 書評「学問の大事さ思う「私流講書始」」
http://mainichi.jp/articles/20170108/ddm/015/070/021000c
加藤陽子先生に拙著『「百学連環」を読む』(三省堂)を書評していただきました。
ありがとうございます。
おもはゆいとは、こんなときに使ってもよい言葉だったでしょうか。おもはゆい。
⇒毎日新聞 > 書評「学問の大事さ思う「私流講書始」」
http://mainichi.jp/articles/20170108/ddm/015/070/021000c
★The Happy Reader (Autumn, 2016, Number 8, Penguin Books)
遅ればせながら、ペンギンブックスが刊行する雑誌『Happy Reader』の最新2016年秋号を入手した。
この雑誌は、前半がインタヴュー、後半はペンギンブックスの1冊をとりあげた特集になっている。この号のインタヴュイーは、『イングリッシュ・ペイシェント』他に出演のクリスティン・スコット・トーマス。本はウィラ・キャザー(1873-1947)の『おお、開拓者よ!(O Pioneers!)』。
これまで季刊だった同誌だけれど、次号から年2回刊行になるのだとか。行き届いたタイポグラフィも読みやすく、のんびりくつろぎながら読むにはいい雑誌。ぜひ続いて欲しいな。
★Hanoch Gutfreund and Jürgen Renn, The Road to Relativity: The History and Meaning of Einstein's "The Foundation of General Relativity" (Princeton University Press, 2015)
散歩がてら訪れた紀伊國屋書店新宿南店(洋書部)で入手。
アインシュタインの「一般相対性理論の基礎」草稿とそれに対する解説をつけた本。
ご覧のように向かって左ページに草稿の写真が配置されています。右ページはコメンタリーです。草稿はドイツ語で書かれており、その英訳が巻末につけられています。導入として「アインシュタインの知的な旅(オデッセイ)」という文章もあり読ませます。
こういう具合に原文を読み解いてみせてくれる本をもっと読みたいものだ、と思いました。
2016年の秋に紀伊國屋書店本店の人文書コーナーで開催したじんぶんや「知と言葉の連環を見るために」のためにこしらえたミニブックガイドの全文が、同書店のウェブで公開されました。
『「百学連環」を読む』(三省堂)にちなんで選んだ74冊について短いコメントを書いております。ご笑覧くださいませ。
ブックフェアで本を選ぶのはほんとに楽しいので、機会があったらまたしてみたいと思います。
寄藤文平さんがつくったスケジュールノート「yPad half X」(朝日新聞出版)に、あれやこれやの予定を書き並べて整理してみたら、目の前のもやがぱーっと晴れるように見通しがえらいクリアになった。
……のはよかったのだが、半ば無意識のうちに見ないようにしていたかもしれない仕事予定の全貌がたちあらわれて打ち震えている。
すごいよ、yPad!
■ついでながらノートについて少々
この30年ほど電子機器も含めていろいろ使ってみた結果、わたくしの場合、全部1冊に書くのがよいという暫定的な結論に達していまにいたる。
一時期、用途別にノートをつくったり、ルーズリーフを使ってファイリングシステムを組んでみたりしたのだけれど、結局どこに何を書いたのかが分からなくなって最後まで使われないノートの山だけが残った。
新しいノートを買うのが好きということもあって、文具店でよさそうなノートを見かけると「これは何々に使うノートにしよう」とかいって理由をつけて入手するわけである。
他方で各種の電子装置も使ってきたが、これもちょっと油断しているとどのファイルがなんなのかが分からなくなる。ファイル名やフォルダ名などにもかなり気を遣っているのだけれど、それ以上にファイル数がアホウのように増えててゆく。
また、なにかを書こうと思い立ってから装置のスイッチを入れて書ける状態になるまでの間が、年々短くなっているとはいえ紙のノートには及ばないと感じる。見方を変えると、なにかを思いついたら、ページを開いてさっと書くという最小の手間に近づいてくれたらもう少し違うのかもしれない。
――というので、ある時期から、ともかく「このノートに書く」というスタイルで、1冊に書くことにしてみた。
この10年くらい、これで困ったことはない。ものぐさなわたくしには、「とにかくこのノートに書く」という単純さが合っているのかもしれない。
使うノートは、電車で立ったままでも書けるように表紙がかたいものを選んでいる。いまのところモレスキン(クラシックハード横罫MM710黒)に落ち着いており、これまで20冊ほど使ってきたところ。
ただし、スケジュール管理は難があった。
そこでGoogleカレンダーなどを併用しているのだけれど、これもデジタルの弱点といおうか、自分で意識してアクセスした時しか目に入らないのが難点である。登録した予定の事前にGoogleカレンダーからプッシュ通知が届く機能もあるのだが、結局アクセスする手間自体が減るわけではない。
といっても、そもそもたいして仕事があるわけじゃなし騒ぐほどのこともなし。『文体の科学』を出した後、2014年の暮れあたりから少しご依頼が増えつつあったものの、一時的なことさねとたかをくくっていたところ、その一時がどうしたものか長引いて、2016年は自分でも全体像を把握しかねる状態になったのだった。
というのでどうすべきか考えていたところ、「そうだ!」と気になっていたyPadを手にしてみたという次第。そして話は冒頭に戻る。
今朝、隣家の人が、外に出て「ダリ、ダリ、ダリ」と声を上げているので目覚めました。
なんだろうと思って聞くでもなく聞いていると、「こっちへおいで」「そっちは危ないよ」など、いろいろなことを言っています。
「そうか、お隣さんではダリを飼ってるのか……あのヒゲを……」
と納得して、再び眠りに落ちようかというところ(なにしろ明け方までお酒を飲んで夜更かししていましたから……)、再び、「ダリ、ダリ、ダリ!」と、今度は先ほどより少し声が大きくなっています。ちょっと苛立ち混じりのような、でもそれを抑えようとしているような、そんな声の調子に聞こえます。
ダリはよっぽど強情な奴なのかな、と思っていると、「ミャーオ」という猫の声。「そう、こっちへおいで!」と呼びかけは続きます。なんだ、猫ちゃんか。
しかし、猫はミャオミャオ言うばかりで、ちっとも呼びかけ主のほうへ寄りつかない様子。私は朦朧とする頭で、「そういえば猫って、呼びかけたらやってくるものなのかしら(犬なら呼ばなくても飛んで来ちゃうけど)」とか、「うちの近所には、猫に紐をつけて散歩をするおじさんがいるなぁ」などとぼんやり連想します。なおも呼びかけが続くなか、「もしかして、隣人殿はその辺の野良猫に名前をつけて呼びかけてるだけなんじゃなかろうか」などと空想が働きもしました。
そうする間にも(って、私はベッドのなかでうだうだしながら空想してただけなんですが)、「ダリ、ほら、こっちだよ」と呼びかけは続きます。「ミャーオ」「ダリ! こっちに来なさい!」
およそ30分近くそんなやりとり(?)があった後で、隣人はとうとう諦めたのか、家へ入ってしまったようでした。相変わらず猫は表で「ミャーオ」と鳴いています。
まさか、お隣さんは猫じゃなくて、なにか別のものに声をかけていたんじゃあるまいか。例えば、ダリとか……そんな空想に頭を占拠されながら、私は再び眠りに落ちたのでありました。
(2013年01月02日、facebookへの投稿から)