おしらせ

★書籍

山本貴光編著『世界を読み解く科学本』(河出文庫、2021/11/20)

山本貴光+吉川浩満『人文的、あまりに人文的――古代ローマからマルチバースまでブックガイド20講+α』(本の雑誌社、2021/01/22)

山本貴光『記憶のデザイン』(筑摩選書、筑摩書房、2020/10/15)

山本貴光『マルジナリアでつかまえて――書かずば読めぬの巻』(本の雑誌社、2020/07/31)

山本貴光+吉川浩満『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。――古代ローマの大賢人の教え』(筑摩書房、2020/03/14)

ケイティ・サレン+エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ――ゲームデザインの基礎』(全4分冊、山本貴光訳、ニューゲームズオーダー、ユニット1:2019/03/17、ユニット2:2019/0511、ユニット3:2019/07/28、ユニット4:準備中)【翻訳】

 

★連載中

「世界の文芸誌から」(「Web本の雑誌」)

・「『本を読む本』を原書で読んでみる」(『手のひら』)

今野真二+山本貴光「知識の沼――ことばで巨人の肩にのる」(「Web河出」)

「岩波文庫で読む「感染症」」(note「コロナの時代の想像力」、岩波書店)

「ゲームを遊ぶとき何が起きているのか」(「晶文社スクラップブック」)

 

★講義の予定

・哲学C/文系エッセンス哲学(東京工業大学)

・共生ゼミ(立命館大学大学院 先端研)

・デジタル・ゲーム学(和洋女子大学)

・ゲーム講座(月2回)

 

★イヴェントの予定

・開催が近づいたらお知らせします。

「エエカゲンがおもしろい」

2021年11月17日の朝日新聞に掲載の「エエカゲンがおもしろい 京大名物の数学者が説いた「生き方」の解」という記事で取材にコメントしました。

テーマは、一刀斎こと森毅さんとその著書『エエカゲンが面白い 数学・教育・大学』(ちくま文庫)についてです。記事は記者の藤生京子さんです。

なお、『エエカゲンが面白い』は、現在品切れとのこと。

 

digital.asahi.com

www.chikumashobo.co.jp

目には見えないがそこにあるもの/『INOUTSIDE』について

先日、ふくだぺろ、ダヴィデ・ヴォンパク、川口隆夫による映像『INOUTSIDE』を観た。事前のプログラムでは『目に見えない呼び声』と題されていたもので、上映前に改題されたようだ。

映像は、高速道路で走る車を眺めたり並走したり道を横切ったりする男A(川口隆夫)と、河原で水に入ったり佇んだりする男B(ダヴィデ・ヴォンパク)の二つの場面を中心に構成されている。

ときおり部屋でピアノを弾く女(福田ゆみ)や、その女に頭部のマッサージを受ける男B、壁にもたれて壁を手でなでて白くなった手を見つめる男B、家の前でDJをする男C(ふくだぺろ)と傍らに立つ女と赤子と男B、彼らがいる土地の景色といったカットが挟まる。

言葉による説明はなく、場所とそこにいる人物の行動だけが提示される。タイトルの「INOUTSIDE」以外の手がかりがあるとすれば、この映像が上映された『INOUTSIDE』という一連のイヴェントという文脈だろうか。

その紹介では「ウイルスと共に生きる未来を考えるプロジェクト型作品」と記されている。このたびのCOVID-19のパンデミックが背景にある。この映像を観に来た人びとの念頭にもウイルスという言葉が置かれている。

とはいえ、いま述べたように、映像はとりたて明示的にストーリーを示したりはしない。むしろそのような形での意味を提示しないタイプの映像だ。

以下では、目と耳にしたもののうち記憶に残る断片と、それを見聞きしながら感じたかもしれないことを言葉にしてみよう。記憶違いも多々あるに違いない。いかにも頼りない覚書である。

派手な色合いの浴衣のようなものを身に付けた男Aが、暗がりで横たわっている。彼は高速道路と思われる道沿いにいる。目の前を過ぎ去る車を眺める。ガードレールに足をかけて乗る。車が通り過ぎるタイミングでジャンプする。道沿いに走る。歩く。道をわたる。戻る。

その様子を見ながら、これは本物の高速道路であり、通る車はこの撮影のことを知らないだろうと思う。つまり高速道路に俳優と撮影者がやってきて、仕組んだわけではない車の流れを前に撮影しているわけだ。

見ている私は少しひやひやする。画面では何かが起きているわけではないのに、何かが起きるかもしれない条件が揃っている。高層ビルの建設現場にわたされた細い足場に腰掛けて宙に足を投げ出している人の写真を見るときに感じるひやひやに近い。いつ落ちても不思議はない。

半ば前をはだけてだらしなく着崩した浴衣という衣装のせいか、男の不安定に見える動きのせいか、余計に危うく感じられる。カメラの前を高速で通過する鉄の塊を前にして、いかにも脆い存在に思える。

余人にはどうでもよいことだが、私は普段、道を歩いているときにも、いつ向こうからやってくる車の運転手がスマートフォンを見ながらの運転でミスをしたり心臓発作を起こしたりして車がこちらに突っ込んでくるか分からない、と想像しながら歩く類の人間である。

そういう人間にとって、男が高速道路で戯れる様子はそれだけで肝の冷えるものだ。もっとも、それがこうして上映されている以上、なにか大変なこと、事故のようなことは起きないはずだとも期待されるのだけれど。

私の脳裡では、なぜか鈴木清順の『陽炎座』が思い出された。松田優作が赤い襦袢を羽織っているのを思い出しただけかもしれない。

 

他方、河原の男Bはなにも身に付けず、そこにいて、ときどき踊りのように体を動かす。水中から空を見上げる映像があり、彼は水に潜っていたのかもしれない。

川が安全というわけではないが、高速道路との対比のせいか、男Bが裸でいるせいか、最大限に無防備である人間が、ここではさほど危険に晒されているようには見えない。むしろ古来の人類がそうしてきたであろうように、彼は体を洗ったり、流水で戯れていたのかもしれない。水は人間が生きる上でなくてはならないものでもある。

また、高速道路にいる男Aとちがい、男Bは服を着て、他の人びととも交わる様子が映される。翻って高速道路の男はただ1人、社会から疎外された人間にも見えてくる。通り過ぎる車を動かしているのは(いまのところ)人間のはずだが、暗いために運転者の姿は見えず、車だけが走っているように思える。あれらが自動運転車だとすれば、彼は人間がいなくなってしまった未来の世界を1人呆けたようにさまよう男なのかもしれない。

――などと、カットが重なるつどさまざまな連想が浮かんでは消えてゆく。

実を言えば、なにより気になったのは音だった。

これは映像外のことだが、ふくだぺろ氏が映像人類学者でもあることから、てっきりこの映像は環境音や人物が発する声の他の音を使わずに編集しているのではないかと勝手に想像していた。

実際には映像を通じて不穏な印象をもたらす音楽が流れており、これは少し意外に感じた。

BGMがついている映像に接すると、ついその意図を考えてしまう。といっても、いつでもなにか意図があるとも限らない。これは分野が違うけれど、ゲーム開発でいろいろな人と共同作業をするなかで、場面になんとなくそれっぽい音楽をつける人もいた。こういう場面ではこういう音が入るものでしょと発想する人もある。

音は映像とちがって、人が画面のどこに目を向けていようが耳に届く。そして言うなれば、半ば強制的にその人の身体と精神に働きかけ、なんらかの情動なり感情なりを喚起する。

そんなこともあり、『INOUTSIDE』ではなぜ映像に音楽を入れたのかが気になった。真意は分からない(そして分からなくてもよい)。そもそもここまで述べてきたように、明確なストーリーを伝える映像ではない。この音はなんなのか。考えているうちにどこかから思い浮かぶ(あるいはどこかから私のなかに入り込んできた)ことがあった。

ウイルスはどこにいったのか。

不意に思い浮かんだ問いに、「いや、ウイルスはそもそも映像に映らないよ」と頭のなかで自答する。映るとしたら電子顕微鏡による撮影か、なんらかのメタファーで表す外はない。

だが一方で、種類を問わずに言えば、ウイルスは空気中にも水中にも、そして私たちの体内にも無数に存在している(とはウイルス学者・武村政春氏の受け売りである)。体内・体外を問わずウイルスがいる。これは人間を中心とした見方だ。視点を換えれば、ウイルスで満ちた空間(空気中・水中)の中に人間は存在している。私たちはウイルスのなかを泳いでいるのだ(念のために言えば、人体に害をもたらすことが判明しているウイルスはその一部である)。

そうか、このカットからカットへとまたがって映像を覆っている音は、高速道路にも河原にも同じように満ちているにもかかわらず人間の眼には見えないウイルスなのだ。おそらくこの音は、男Aにも男Bにもその他どの人物にも聞こえていないだろう。映像の隅々に満ちているにも拘わらず、そこに登場する人びとには聞こえないウイルスのような音は、自然のなかだろうが、人里だろうが、高速道路だろうが、人が意識しようとしないでいようとそこにある。そして人はその中で生きている。それぞれが何をしているか、何をしたいかにも関係ない。ただそこにあり、人間がつい考えてしまうような意味はない。

これはなにかそういう状態を描いた映像なのではないか。そんなことを思い浮かべるうちにエンドクレジットが流れて会場が明るくなった。

上映後のトークでは、ふくだぺろ、ダヴィデ・ヴォンパク、川口隆夫の3氏が登壇し、来場者たちの質問に答えた。

その中で、今回上映した映像は、以前上映した『目に見えない呼び声』をもとに編集し直したものである旨も説明があった。以前のヴァージョンでは、もう少し説明的な要素もあったとのことだった。

私は、もし他に質問者がいなかったら、この上映に先立って行われたダヴィデ・ヴォンパク氏のダンスパフォーマンスで歌われた3曲について尋ねようかと考えていた。質問と応答は続き、そのうちに音について問うた人があった。

ふくだぺろ氏は、もともと音楽をつけるつもりではなかったが、今回はダヴィデ・ヴォンパク氏のアイデアで入れてみたと答えていたように記憶する。ただ、それが何を意図するのかは必ずしも明確なわけではないようだった(私がなにか聞き逃している可能性もある)。

そこで質問ではなくコメントとして、ひょっとしたらあの音楽は目には見えないものの、この映像の中にも外にもいたるところに存在しているウイルスを表したものとして観る/聴くことができるのではないかと述べた。いささか予定調和的で凡庸なコメントだが、そうではなくて……と別の見方が出たら面白いかもしれないとも思ったのだが、ほどなく時間が尽きてお開きとなった。

この映像を観たのは2021年10月23日のことで、それから2週間近くが経った。もとより私は物覚えが悪いほうで、ひどい時には映画を観たことさえ忘れてしまうこともある。だが、『INOUTSIDE』に関していえば、目にした情景のいくつかがいまだに記憶に刻まれていて、ときおり「あれはなんだったんだろう」という気分になっている。意味不明で、ストーリーや意味にすっきり回収されないもののほうに興味を惹かれるということもあるのかもしれない。念のために言えば、ここで「意味不明」とは文字通りのことであり、映像に対してはむしろ讃辞だと思って使っているのだった。

 

*文中で「男A」と「男B」を混同している箇所を修正しました。(2021.11.07)

 

dancenewair.tokyo

アウグスティヌスを引用するドロシー・L・セイヤーズを引用するアラン・チューリングについて

最近、アラン・チューリングの「知能機械」を読んでいて気がついたことがあった。

といっても、たいしたことではなく、いずれかといえば些末でことさらなにかを言うようなことでもない。

ただ、気になる人には気になることでもあるようにも思うので、ここに記しておこう。あるいは既知のことかもしれない。

「知能機械」の翻訳は『コンピュータ理論の起源[第1巻] チューリング』(伊藤和行編、佐野勝彦・杉本舞訳・解説、近代科学社、2014)所収のものを読んでいる。解説もついて大変便利でありがたい本だ。原文のほうはネット上でPDFが手に入る。

同論文の冒頭で、チューリングは「機械が知的な振る舞いをしてみせることがありうるかという問題」について検討しようと述べている。そして、考えられる反論を5種類並べてみせる。

その一つに、機械というものはとても簡単な仕事を反復するものだ(だから知能機械などありえないでしょ)という反論がある。そのなかでチューリングは、そうした意見の例として、ドロシー・L・セイヤーズのThe Mind of the Makers(1941)という本を引用している。

ドロシー・L・セイヤーズといえば、ミステリ作家として日本でも愛読者をもつ人だが、同書は小説ではなく宗教エッセイといった内容の本である。書名を訳せば『神の御心』とでもなろうか。

チューリングは、セイヤーズの本から次のように引用する。

文章A:

「宇宙を創造した神が、いまペンのキャップを回して閉じ、足を暖炉の前飾りの上において、仕事がひとりでにうまく進むにまかせるのを思い浮かべる」

(前掲書、p. 121)

セイヤーズの本からの引用はここで終わって、続けてこんなふうに書いている。

文章B:

しかしながら、これはむしろまったく存在しないものから組み立てられた、聖アウグスティヌスの比喩的表現か謎めいた言い回しの範疇に入る。創造者が手をひいたとき、ひとりでに多様化がおこるような創造について、我々はまったく知らない。この考え方は、神が単に巨大な機械を創造し、燃料がなくなって止まるまで動くにまかせるというものである。これは曖昧な喩えの別形である。我々は自発的に多様性を生み出すような機械を経験で知っているわけではないからである。機械の本性とは、動き続けるかぎり同じことを何度も行うことなのである。

(前掲書、p. 121)

素直に読むと、文章Bはチューリングが書いたように見える。私も以前はそう読んでいた。

ただ、今回ゆっくり精読してみて気がついたことがあった。もしこの文章Bがチューリングによるものだとしたら、「聖アウグスティヌスの比喩的表現か謎めいた言い回しの範疇」という表現はいかにも唐突で、それこそ謎めいている。文章B全体にもなんとなくちぐはぐした感じが残る。

そこで原文を見てみると、たしかに該当する箇所に引用符がある。下図で赤丸をつけてみた。

図1

f:id:yakumoizuru:20211015010838p:plain

ただし、ここで見ている原文では最後の行にも再び引用符が使われていて、ここもセイヤーズからの引用のように見える。これはなんなのか。

結論から言うと、チューリングがセイヤーズの本のタイトル The Mind of the Maker を示した直後、最初の引用符に始まる "... which imagines that God"から、この段落の最後の"... it keeps going"までの全体が、ドロシー・L・セイヤーズの本からの引用なのだった。

そうであれば、先ほどの「聖アウグスティヌス」云々の話も腑に落ちる。

というのも、セイヤーズは同書で聖アウグスティヌスの『三位一体論』の英訳から文章を引用していて、そのなかに"But it has drawn no words whatever, whereby to frame either figures of speech or enigmatic sayings, from things which do not exist at all."という一文がある。

ここでアウグスティヌスは、聖書は実在するものをもとに書かれているが、それに対して世の中には実在しないものに基づいて書かれた言葉もあると言っている。それが"figures of speech or enigmatic sayings"で、「比喩表現や不可解な物言い」と言い表されているわけである。

チューリングが引用していたセイヤーズの文章は、いま眺めたアウグスティヌスの引用を前提としたものだった。

以上を踏まえて、チューリングが「知能機械」で引用した箇所を訳すとこんなふうになるだろうか。

こうした態度についてはドロシー・セイヤーズが次のようにとてもうまく表している(『神の御心』、p. 46)「……こんな場面を思い浮かべていただきたい。〔私たちは世界を創造するもの書きになぞらえて〕宇宙の創造を終えた神が、ペンの蓋を閉めて、足をマントルピースに投げ出し、自分がこしらえたものをなるようにしておくという、そんな場面だ。だがどうだろう、このような場面は、それこそ〔先に『三位一体論』から抜粋して読んだように〕聖アウグスティヌスのいう、まるで実在しないものに基づく比喩表現や不可解な物言いの類ではないだろうか。なにしろ私たちは、創造主が手を離したあと、自分で変化していくような被造物など見たことがないのだから。先ほどの想像は、言うなれば、神が途轍もない機械をお造りになって、それが燃料切れになるまで動き続けるままにした、と言っているようなものだ。これもまた曖昧なアナロジーというものだ。なぜなら、私たちは自発的に変化していくような機械など、まるで見たことも聞いたこともないのだから。機械とは、可能な限り何度でも繰り返し同じことをするものなのだから。」

文頭と文末に括弧をつけたのは、ここからここまでがセイヤーズの本からの引用である旨を示すためである。また〔〕は山本が補足した言葉。

チューリングは、この論文を生前に刊行しなかったとのこと。Turing Digital Archiveというウェブサイト(http://www.turingarchive.org)でタイプ草稿が公開されている。該当箇所を見ると、こうなっていた。

図2

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ここでも引用符に赤丸をつけてみた(ちょっと見づらいかもしれない)。たしかにチューリング自身も、"to get on with itself."の後ろに引用符を入れている。ただし、最後の"it keeps going."の後ろにもやはり引用符を入れている。

おそらく、"to get on with itself."直後の引用符はタイプミスなのだと思われる。

念のため、手元にあるCollected Works of A. M. Turing: Mechanical Intelligence (Edited by D. C. Ince, North-Holland, 1992) の該当ページも見てみたが、図1と同じように引用符が入れてあり、特に注釈などはついていなかった。

他の刊行された版は確認していないので分からない。

以上は、だからどうしたということではあるが、チューリングの論文中に、ドロシー・L・セイヤーズからの引用文があたかもチューリング本人による文章であるかのようにみえる箇所があることを示してみた。

 

★近代科学社 > 『コンピュータ理論の起源[第1巻] チューリング』(伊藤和行編、佐野勝彦・杉本舞訳・解説、近代科学社、2014)紹介ページ
 https://www.kindaikagaku.co.jp/information/kd0454.htm

 同書の紹介ページ。正誤表を含むサポートページへのリンクもあります。

 

東工大リベラルアーツ研究教育院の教員インタヴュー

この春から勤めている東京工業大学のリベラルアーツ研究教育院(ILA)のウェブサイトに教員インタヴューのページがあります。

そこに私のインタヴューも掲載されました。

educ.titech.ac.jp

同時期に着任した赤羽早苗さん、治部れんげさんをはじめ、ILA所属の先生方のインタヴューが載っています。

educ.titech.ac.jp

educ.titech.ac.jp

インタヴューの一覧はこちらからご覧いただけます。

educ.titech.ac.jp

はやく言ってよ、仮想デスクトップ

昔、なにで読んだのだったか、井筒俊彦さんが自宅で本を読むとき、ここはアラビア語、こっちはロシア語と、言語ごと(あるいは本ごと)に別の場所に置いているという話を目にして、それはいいアイデアだなあと思ったことがあった(うろ覚えなので偽記憶かもしれない)。

最近、パソコンで複数種類の仕事を並行して皿回しのように進めながら、「ああ、デスクトップも井筒さんの机のように場所ごとに別の仕事を割り振れるといいのにな」と思い、そういうツールは誰かつくっているに違いないと探してみたところ、Windows10には「仮想デスクトップ」という仕組みが備わっていることをいまさらながら知ったのだった。灯台もと暗しとはこのことか。

「仮想」という名称があまり気に入らないのは措くとして、要するにデスクトップを複数つくり、操作によってディスプレイに表示する対象を切り替えられるという仕組みである。

例えば次のような操作がある。

Windows+ctrl+d:仮想デスクトップを作成する。

Windows+ctrl+←あるいは→:作成済み仮想デスクトップを切り替える。

Windows+tab:現在存在している仮想デスクトップの一覧を表示する。

そういえば、Windows3.1のころから、OSの操作法やマニュアルというものを読んだことがなく、OSに用意されている機能を十分に使わないどころか、どんな機能があるのかも弁えないまま使ってきたツケがこういうところで回ってきたのだろうか違うか。

それはさておき、これからしばらく仮想デスクトップを試してみようと思う。

というのも、仕事ごとに開いておきたいツールやサイトがあって、これを一つのデスクトップでやると、単なる混沌の渦となり、毎回片付けたり切り替えたりするのが手間なのだった。

例えばいまなら、大学の仕事用、各種連載、翻訳、執筆など、仕事ごとにデスクトップを分けてみたい。

使う前に懸念されることがあるとすれば、いま画面に表示している以外のデスクトップの存在を忘れてしまうことだろうか。画面のどこかに常に他の仮想デスクトップの存在を知らせる表示があるとよいと思う。これまた、どなたかがそういうツールをつくっているのではないかと期待している(他力本願)。

「公開加圧」の効能

 このところ、「公開加圧」を試している。

 「公開加圧」とは、三中信宏さんの『読む・打つ・書く』(東京大学出版会)で教えられた、ものを書き進めるための方法のこと。

 以前から三中さんがTwitterで実践しておられるのを目にしてはいたのだけれど、同書でその考え方や具体的な例を読んで、自分でも試してみようと思い立ったのだった。『読む・打つ・書く』は、読む人を「焚きつける」本で、私もすっかりその気になったというわけである。

 詳しくは同書に譲るが、「公開加圧」とは、書き物などの仕事について進捗を公開することで、自分に圧をかけるという発想。

 例えば、つい最近私がTwitterに投稿したのはこんな具合。

 「公開加圧」としては、1行目の「[書き物] 連載B-1:3100(計4413字)完成」に意味がある。残りは、なんとなくそのつどおまけのように書いている雑談で、こちらはあまり意味がない。

 私は1日の終わりに、その日書いた字数を原稿ごとにカウントしてまとめてツイートしている。三中さんのように書いたその場でツイートというやり方もある。

 このツイートは、当人にしか意味がない。

 上記のようなツイートを目にしても、他の人にとってはよく分からないだろうし、「ふーん」てなものである。そしてそれで構わない。

 他の誰もそのツイートを見ていないとしても、ツイートする側としては、Twitterという第三者の目がある場所に自分の進捗を投稿することで、「人目にさらしている」という意識が生じる。この意識を生じさせるための「公開加圧」なんである。

 先に触れた三中さんの本で、その効能が説かれていて、「現にほら、この本もこうして書かれたわけですよ」という意味の具体例も提示されている。それで、自分でもものは試しとやってみた。

 最初はそうはいっても、実際にどんな効果があるのか、まだ分かっていなかった。

だが、1週間、2週間と続けるうちに、ものを書くことについての意識がかなり変わった。何が変わったと感じているかを、少し書いてみたい。

1) 字数を意識するようになった

 それまでは、依頼を受けた原稿で文字数を指定されている場合などに、その上限字数を気にすることはあっても、自分が今日何文字書いたかを考えることはなかった。目標字数に近いかどうかだけ意識していた。

 「公開加圧」を始めてから、日々自分が書いた文字数を意識する習慣ができた。というのは「公開加圧」のツイートに書くために、原稿ごとの字数を確認するからだ。

 字数を意識すると、たとえそれが小さな数字であっても、着実に前進しているという感覚が生じる。仮にあとで書いたものを捨てることがあるにしても、進んでいるという感覚は結構大事だと思う。

2)日々の時間の使い方が変わった

 それまでは、締切が近いものがあると、わーっと集中して書いて、終わるとぼけーっとする。ということを繰り返していた。つまり、夏休みの宿題を最終日にやる子供のような仕事ぶり。

 「公開加圧」を始めてから、日々の限られた時間を見つけて、少しずつでも書く習慣がついた。目下は大学に所属しており、そちらが主な仕事ということもあって、物書きや翻訳は、主業務のあいまのスキマ時間に行っている。

 以前なら、「締切前になんとかまとまった時間をつくって一気に片付ける」という短期決戦型の発想をしていたところ、「次の会議まで30分。ちょっとあれを書き進めておこう」てなもので、数百文字でもできるときに進めるという意識になっている。結果的に仕事の時間にメリハリがついたりもする。

3)執筆以外の意識も変わった

 なんだか冗談みたいだが、「公開加圧」で物書きの進捗を意識するようになってから、ものを読むことについても同様に考えるようになってきた。これについては、また別途書いてみることにしよう。

 というわけで、「公開加圧」の効能についていくらか書いてみた。

 詳しくは、三中信宏『読む・打つ・書く』(東京大学出版会)でどうぞ。

www.utp.or.jp