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古典ギリシアの碩学アリストテレスの伝存する作品を集成したアリストテレス全集』岩波書店は、どこを開いても興味の尽きない書物だが、とりわけ愉快なのが『問題集』(προβληματα)と題された一冊だ。


この、成立過程がはっきりしていない書物には、およそ800を超えるさまざまな「問題」が38巻に分けて集められている。訳者戸塚七郎によると、アリストテレス本人がまとめたというよりは、幾分長い時間をかけてペリパトス学派によって編纂されたものと推測されるとの由。たしかに細かく見ていくと、今日アリストテレス全集』に含まれる他の著作における主張と必ずしも整合しない発想や思考も本書には含まれている。


それにしても、このヴォリュームだけでも圧倒されるのに十分だが、内容もまた驚くべきものだ。試みに、各巻のタイトルの邦題(岩波版全集第11巻、戸塚七郎訳、岩波書店、1968)を掲げてみよう。

第01巻 医学上の諸問題

第02巻 発汗に関する諸問題

第03巻 飲酒と酩酊に関する諸問題

第04巻 性交に関する諸問題

第05巻 疲労に関する諸問題

第06巻 横臥と姿勢に関する諸問題

第07巻 共感に関する諸問題

第08巻 冷えと悪寒に関する諸問題

第09巻 打撲痣、瘢痕、および蚯蚓腫れに関する諸問題

第10巻 自然学諸問題摘要

第11巻 音声に関する諸問題

第12巻 芳香に関する諸問題

第13巻 悪臭に関する諸問題

第14巻 混合に関する諸問題

第15巻 数学理論に関する諸問題

第16巻 無生物に関する諸問題

第17巻 生命あるものに関する諸問題

第18巻 学習に関する諸問題

第19巻 音楽的調和に関する諸問題

第20巻 潅木と野菜に関する諸問題

第21巻 大麦粉、大麦パン等に関する諸問題

第22巻 果実に関する諸問題

第23巻 鹹水と海に関する諸問題

第24巻 温水に関する諸問題

第25巻 空気に関する諸問題

第26巻 風に関する諸問題

第27巻 恐怖と勇気に関する諸問題

第28巻 節制と不節制、自制と無自制に関する諸問題

第29巻 正義と不正に関する諸問題

第30巻 思慮、理性、知恵に関する諸問題

第31巻 眼に関する諸問題

第32巻 耳に関する諸問題

第33巻 鼻に関する諸問題

第34巻 口と口腔の部分に関する諸問題

第35巻 触覚に関する諸問題

第36巻 顔に関する諸問題

第37巻 身体全体に関する諸問題

第38巻 膚の色艶に関する諸問題


上記からも伺えるように、ここに集められた「問題」の数々は、人間にかんするものが中心となっている。その生理、その心理、あるいは人間と環境とのあわいに生ずるあれこれのことが問題として列挙されているのだ。邦訳では、さらに各巻に収録された問題が目次に列挙されていて、これを眺めるだけでも壮観で楽しい。とはいえ、あれもこれも紹介するわけにもいかないので、いくつか例を挙げてみたい。


たとえば第7巻の「共感に関する諸問題」には、「なぜあくびは人から人へ伝わるのか?」という問題が収録されている。なにかをしたい(この場合はあくび)と思えば人はあくびができるのか、それともこれは記憶にかかわっているのかなどなど、一つの問題にたいして「これが答えだ」というよりも、むしろ「こうだろうか、ああだろうか」という仮説が提示されている。


同様に、「掌の全体を横切って分割線を持っている人間は、何故により長命なのだろうか」(第10巻)などと、生命線と寿命の関係を問うた問題も含まれており、生命線とは手相の専売特許かと思い込んでいるとこういう一節に驚かされる。



人はなぜ10進法を好んで使うのか、病気は伝染するのになぜ健康は伝染らないのか、どうして酒を飲むと涙脆くなるのか、なぜ人間は鼻血を流すのか、なぜ夜になると音がよく聞こえるのか、泡はどんな形をしているのか、読書をするとなぜ睡魔に襲われるのか(!)、あるいは、「頭髪の伸びがはやい男性は好色である」というよく耳にする俗説は、ひょっとしたら本書に見える「毛深い男性(と鳥)はなぜ好色なのか?」という問いに淵源を持っているのではないか、などとつい空想が逞しくなる。などなど、この本には言われてみれば、いまでも興味の尽きない問題がゴマンと載っているのだ。


これを通読すると、なんとまあよくもこれだけの問題を集めたものだと関心するのを通り越して呆れもする。むろん、アリストテレスが一人でこれらの問いを立てたというよりも、ペリパトス派が蓄積していったと見るほうが自然のようだが、それにしてもである。


アリストテレスは、(プラトンもそうだが)思索は驚くことからはじまるとどこかで述べている。この言辞だけを受け取ると、「そうか」と、なにやら優等生的に(為にする)問いを立てる輩が出てもおかしくはないな、などと思ってしまうのだが、なるほど『問題集』に集積されたあくまでも具体的で経験の次元に深く根ざした問題を眺めると、まずもってこれらの問いを立てるには洞察と驚きの眼がなければとうてい無理であることが素直に感得される。逆に言えば、なんにせよ「そんなことは当然じゃないか」と思えばまったく無問題であり、そこからはなんら思索や探究も誘発されないということが痛いほどよく判る。


ある問いを抱いたとき、世界や身の回り、あるいは図書館や書店の書棚が、ウェブ上の情報がそれまでとはちがった見え方をする。昨日までとまったく同じ蔵書群が、不意に訪れた一つの問いによって、まったく異なる意味や意義を持つということがある。このアリストテレスの名のもとに集成され、後世に伝えられた書物には、そのような世界の見え方を変えるいくつもの問いが収められている。だから、もしトリヴィアルな関心からこの書物を手にとったとしても、必ずやひとは思ってもみなかったページへと誘われ、考えてもみなかった問い、つまり世界の眺め方に遭遇するだろう。これは誠に愉快なことではなかろうか。


それにしても、ここに集められた800を超える問題のうち、その後解決されたものはどれほどあるのだろう。それぞれの問題の「その後」や、附随するさらなる問題を追記してみたら、いっそうこの書物の滋味が増すのではないかと思うとなおのこと愉しい。


なお、比較的入手しやすいギリシア語版としては、LOEB CLASSICAL LIBRARY版(2分冊)がある。


*報告が遅くなりましたが、メールマガジンビジスタニュース」2006年12月27日号(12月20日配信)に、相棒・吉川浩満id:clinamen)とともに、「お役立ち(?)トラブルシューター本ガイド」を寄稿しました。上掲書を含む4冊のトラブルシューター本をご紹介しています(下記のリンクからご覧いただけます)。


⇒LOEB CLASSICAL LIBRARY > Aristotle, Problems(英語)
 http://www.hup.harvard.edu/catalog/L316.html


⇒Incunabula Collection > Aristoteles, Problemata
 http://www.ndl.go.jp/incunabula/e/collection/incu_05.html
 国立国会図書館の特集コーナー「西洋印刷術の黎明 インキュナブラ」に置かれたアリストテレス『問題集』のラテン語版画像。解説によると、アラビア語訳からラテン語に訳されたものと考えられているらしい。


岩波書店 > 『アリストテレス全集』
 http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/09/X/091281+.html


⇒Perseus(ギリシア語/英語)
 http://www.perseus.tufts.edu/cache/perscoll_Greco-Roman.html#text1
 アリストテレスの著作をギリシア語、英語で参照できる。


⇒週刊ビジスタニュース > 2006/12/27号
 http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3069