★既視感ありありの日記


おくればせながら、今年の2月に刊行された『一読書人の日記 1935-84』(林哲夫編、[スムース]文庫05、2004/02)を手にとる。本書は、1995年の阪神淡路大震災のあとで被災世帯から運び出された廃棄物のなかから見つかった読書日記の抜粋である。


著者は不明で、1914年生まれと思しき人物。最初のページは、1935年(昭和10年)9月の日付で、大塚金之助のひそみにならって「読書日記」と題する日記をつけはじめること、そして「学園粛正運動も、やや一まず落着いた形である。之からは、少しは、落着いて、讀書も出来るであらう」という抱負が記されている。


読書日記は、この人物がその日その日に購入した書物の一覧と、目をとおした書物についての所感などからなる。


これがすこぶる興味深い。以下、少しだけ日記から言葉を拾ってみよう。


1935年9月23日

購入書籍
1 書物の道
2 書物展望(二十冊)
1、は頗る立派な書物である。以前から買ひたいと思つてゐたが、値段に押されてゐた。今回の特価で漸く買ふ事が出来たわけ こうなると、日本出版界のだらしなさも、有難くなる。大体、わかり易すそうな所を読んだが、頗る同感の点が多い。又今後の方針についても、教へられる所が多々ある。こんな良心的な本が、うんと出ると、日本の出版界も頗る心強いのだが。

頗る同感。


1938年6月10日

待望のプラトンのテアイティトスを遂に買つた、その代りにフィツシャー利子論が姿を消す。読さうにない本はどしどし売つて新刊にかへ、書棚を統一あるものとすべきだ。だが古本屋の奴、好い値で買つて呉れないのが、面白くない。テアイテトス、期待が大きすぎた故か、買つて了ふと、何だか気が抜けた様で、あまり読書慾をそそらぬが、とにかく、馬力をかけて、卒業して了はう。

「どしどし売つて」とは、本心というよりはそうでも言わねばやりきれぬ自分へのハッパではないだろうか、と考えるのは私だけですかそうですか。


1940年7月25日

本を買附のも、結局、一つの自慰に過ぎないと、はっきり判りました。買ふことによつて、その目的が幾分か近づいたことを思つて、それで満足するのです。明に、それは何の意味も持ち得ない自己欺マに過ぎないことは、よく判つてゐるのですが、一つの習慣となつてしまつたのか、どうすることも出來ないものとなつてしまつてゐます。

ショーペンハウエル先生もおっしゃっていましたなぁ、世の中には入手することと読んで理解することを履き違える御仁がおるって、いうのもまた鏡に向かって述べているようなことですが、ええ。


1941年6月3日

原書でほしいのは、神戸浅倉屋にあつたジムメルの貨幣哲学、も少し値段でも安ければとにかく、二〇円では、あまりにも高すぎる。訳本も出てゐることだし、せめて、シュタムラアの法律と経済が、あの位のキレイな本であつたのなら、買ふ元気も出たであろうに。

いったいある本の値段を高いと思うか安いと思うか、という問題にもさまざまにむつかしい要因がある。この著者もほかの箇所では、バートン訳のアラビアンナイトを他人から見れば常軌を逸した出費に見えようが、といいながらあれこれそれがいかに理にかなった買い物であるかを書いたりもしている。一般的に1万円の本を高いと感じるかどうかというよりは、ほかならぬその本に1万円を出してもよいと思うか否か、という判断である。


1953年2月9日

欠勤す、気分良し、片附け、(本、スクラップ)掃除等して過す。

あの気分のよさを味わうために会社勤めをしているんではないかと思うね、わたしも(だからそれは倒錯だっつうの)。


1956年8月14日

朝七時四十分 意外に早く分娩、女子//これで俺もオヤジになる。複雑な感情が胸中を入り乱れる。//記念に吉川幸次郎 陶淵明 を求める。

「記念」に書物を求める。もうこうなると、「酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞ」の歌と一般である。いつでもどこにでも書物を購うきっかけは満ち満ちている。ボタンを押すばかりまでお膳が整えられてはなおのこと。まったく油断がならない。


1978年6月15日

香港より書籍到着//重さ甚だしくこたえる
 Chinese Classics 5冊
見事な大冊、一万五〜六千円であつたと思うが、つくづく本も安くなったものと感深し。

「千円以上の本は高い」と感じるひとから見ると、このような感覚はすでにおかしいらしい。


――という日記なのである。いまでは blog の普及もあって、あちこちで読むことができるこの種の日記だけれど、まだこの読書人のように、50年にわたって書きつがれた blog は(当然のことながら)ない。このあと、10年、20年、50年、100年とたつと、「おい、ちょっと100年前の人がどんな本を読んでいたのか、データ・マイニング(データの掘り出し)かけてみようぜ」といった事態が出来するのかもしらんけれど、現代において同様の愉悦をえようと思ったら、本書のような文書に出会う僥倖に恵まれるのを待つよりないわけで、そう思うと100年後に先人の blog やら WEBサイトやらの痕跡を眺めるたのしみを享受できないわが身がうらめしくあるようなないような。


本書は、書店のほか、以下のサイト経由でも入手できる模様。

sumus
 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/5180