★被写体意識なき撮影というか撮影体自意識だけがある撮影

カフェーでお茶をのみながら書店で手にいれた本を眺めていると、隣の席でたのしそうに広東語でおしゃべりをしている女の子二人組みの一人が、それまでの銃撃戦とはうってかわった調子で「すみません、写真撮っていただけますか?」と流暢な日本語を口にしながらディジタル・カメラを私に手渡す。


いいですよ、と請合いながらカメラを受け取ったまではよかったものの、ここで当惑した。自分はやはりなにか彼女たちにシャッターを切るタイミングを伝達したほうがよいのだろうか。しかし、彼女たちにわが邦でいつのころよりか流通しているあの言葉、これから自分はシャッターを切るから撮影される諸君はそのつもりでよろしく表情を制御するやら頭髪や服装を按配してくれたまえ、と伝達せしむるあの言葉が通じるのかもわからんし、そもそも自分はシャッターを切るのに「はい、チーズ」なんていいたくないんである。


そこでここはひとつ、木村伊兵衛流でいくことにしよう、と思いつく。すなわち、被写体に被写体意識を生じせしめぬよう、いつ撮られたのかわからんように撮影するのである(cf.こちら)。「はは、これだ」と自分のエエ加減な思いつきにうれしくなりながら、液晶をのぞくと先方は準備万端で、パステル調に統一された「午後の紅茶」なる屋号の店内のソファに二人で仲良くよりそって満面の笑みをうかべている。一瞬、あれここはどこだっけ?(渋谷だったと思ったのだが)、とそうでなくても混乱している頭がさらに混乱しはじめたのだが、こうなるともはや被写体意識というよりは撮影する自分のほうが撮影という行為によって意識の混乱を招いているんであって、自分は撮っても撮られても平静でいられない写真術における落伍者であったかと悟りつつ自分でもいつ押したのかわからんタイミングでシャッターをきっていたのであった。


混乱のうちにようやく任務をおえた自分は、撮影された写真を液晶画面で確認し、これなら大丈夫、と彼女たちにカメラを返した。「ありがとうございます」と言って、彼女たちはまた広東語のにぎやかなおしゃべりにもどっていった。


カメラを向けられても泰然自若として笑みをたたえられる被写体と、たかだかシャッターを切ることに混乱する撮影者という珍妙なとりあわせ。自分もまた読書にもどった。